前田智徳(まえだとものり)選手は、野球界の生きる伝説です
また、人をほめることがめったにないミスター三冠王落合博満は「今の野球界には2人の天才がいる。それはイチローと前田智徳だ。」という言葉を残しています。
これだけを聞いても、どれほどのすごい選手か伝わってきます。
相手ピッチャーを射貫くような鋭い眼光で打席にたつ前田智徳は、孤高の侍と呼ばれました。
プロ野球入りから、1995年
前田智徳は、1989年に高卒でドラフト4位で広島カープに入団します。1991年に開幕からスターティングメンバーに抜擢されます。
打率は、2割7分と、まあ新人にしては上出来ですが、それ以上に、史上最年少のゴールデングラブ賞が光ります。
1992年〜1994年は、全て3割以上の打率を残して、完全にスター選手となります。
守備でもベストナインを獲得するなど、球界を代表する選手となりました。
しかし、1995年、彼を悲劇が襲います。
内野ゴロを打って一塁へ走っていたときに、アキレス腱を断裂。選手生命の危機といわれるほどのケガでした。
まだ、開幕から日の浅い5月23日のことでした。
結局、このシーズンの残りは全て棒に振ることになりました。
このDVDに収録されている、ケガをする前の会見で、
「足は痛いけど、中心選手は休めないと監督に言われているので休むわけにはいかない。」
という発言に胸が痛みます。
もう少し、休ませながら起用すれば良かったのでは?と後から思ってしまいますが、これほどすばらしいバッターを休ませるのはチームにとって大きな損害になってしまいます。
復帰後の活躍
前田智徳は、翌年1996年の開幕から復帰することになりますが、復帰直後から大活躍します。
しかし、ケガの後遺症もあり、肉離れなどの足の故障を繰り返し、規定打席に届かないことがほとんどでした。
1998年、1999年も、3割3分以上の打率を残す活躍をみせますが、足の故障を抱えたままで休みながらの試合となります。
前田本人は全試合出場を目標としているため、とても悔しい思いをしています。
2度目の大ケガ
そして、2000年、またしてもアキレス腱を痛めて、手術が必要な状態となります。1995年とは反対の足でした。
しかし、前田智徳は不屈の精神でリハビリを行い、見事翌年に復帰します。
しかし、2001年は、ケガの影響で、27試合の出場にとどまります。
さらなる復活劇、そして2000本安打
2002年から2006年までは復活し、打率3割を超えなかったのは1回だげでした。
そして、2007年、本人も目標としていた2000本安打を達成します。
天才前田であれば、もっと早く達成できていたはずです。しかし、これだけのケガを抱えながら2000本安打を達成できたのも前田智徳だったからこそです。
このDVDの映像では、2000本安打を達成した試合のインタビューが収録されています。
大歓声を浴びるなか、前田智徳は、
「チームの低迷に関する責任がある。申し訳ない。」
と涙ながらに謝罪します。
また、
「こんな男を応援してくれてありがとう。」
と語ります。
これこそが、謙虚で誠実な前田智徳という男を表しています。
そして、引退へ
その後、チームの若手育成方針が進むに従い、前田智徳の出場は減っていき、主に代打の切り札として活躍することになります。
勝負強いバッティングで活躍し、2012年には代打中心ですが、3割を超える打率を記録します。
2013年に入っても打撃は好調で、開幕直後から3割を超える打率でした。
しかし、4月23日、ヤクルト戦で左手首にデッドボールをうけます。
左尺骨骨折と診断された前田智徳は、懸命にリハビリを行いますが、願いかなわず、その年での引退を発表します。
最後まで、ケガに泣かされたプロ野球人生でした。
10月3日の最後の打席を後から振り返ったDVD内の映像では、
「緊張はしなかった。結果を出さなくてもいいから。」
と言っています。
常にチームのために結果を求めて自分を追い込んできたきた前田智徳らしい言葉です。
前田智徳が残した功績
前田智徳が残した、生涯打率3割2厘は、ケガで試合に出たり出なかったりを繰り返した選手としては驚異的なものです。
生涯打率3割越えは日本プロ野球の歴史の中で24人しかいません。
ケガがなければ、どれほどの記録を残していたのでしょうか。
たらればを言いたくはありませんが、そう思わせてくれるほどの選手でした。
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