世界遺産に登録されている法隆寺の昭和の大修理を行い、薬師寺の修繕を行った伝説の宮大工、西岡常一。
平成7年に亡くなられましたが、後世に語り継がれるべき日本が誇る偉人です。
DVD「鬼に訊け 宮大工 西岡常一の遺言」は、85歳当時の西岡常一本人へのインタビューがメインとなっています。
享年86歳で亡くなられた偉人の、死の直前の映像であり、今となっては、永遠に作り直すことのできない、とても貴重な映像です。
法隆寺昭和の大修理とは
まず、西岡常一の大偉業のひとつである、法隆寺昭和の大修理について説明します。
そもそも、なぜ法隆寺の修理が必要であったか、ですが、ときは明治時代にさかのぼります。
明治政府によって発せられた、いわゆる神仏分離令を拡大解釈した人々が、廃仏毀釈という運動を起こし、仏像、仏具を破壊するという活動が広まってしまいました。
法隆寺においても、その運動から逃れることはできず、伽藍が破壊されてしまいました。
大正時代になり、その歴史的価値が見直され、再建に向けた取り組みが始まります。
様々調査を経て、昭和9年、いよいよ国をあげての大修理が始まります。
その途中では、昭和24年に金堂の焼失、戦争による戦火を逃れるための解体など、さまざまな試練を乗り越えていきます。
その中で、代々法隆寺の修繕を担当していた宮大工一族の後継者である西岡常一が棟梁となり、昭和の大修理の中心として活躍することとなります。
鬼と呼ばれた男
法隆寺の大修理を行う中で、西岡常一は、とにかく木材にこだわりました。
過去にどのような木が、どのような加工方法で、どう組まれたかを徹底的に調べて、どうすれば木材だけで1000年もつ建物が建てられるのかを研究しました。
しかし、学者たちは、法隆寺の修理には、鉄骨を使うべきだと主張しました。
それに対し、西岡常一は、鉄骨では1000年もつ建物は作れないと主張しました。
西岡常一は、自身の知識と経験に裏付けされた主張を譲らず、その頑固な姿勢と徹底した作業から、法隆寺の鬼と呼ばれるようになりました。
薬師寺の修繕と感動の物語
法隆寺の大修理の名声を聞き、薬師寺の住職は、西岡常一の技術に目を付けます。
薬師寺の修理を西岡常一に依頼することとしました。
西岡常一は、東塔を徹底的に調べ上げ、修理の参考にしました。
東塔の調査だけで2年の月日がかかりました。
そして、西塔の再建に着手し、4年の歳月をかけて西塔が完成しました。
そして、講堂の建築に取りかかりますが、西岡常一は、依頼主の薬師寺の住職に対して、「私は歳をとって、若い頃のように動けないから給料を半分にしてほしい。」といったそうです。
また、西岡常一は、講話などに呼ばれて報酬をもらったときは、薬師寺再建に役立ててほしいといって住職のところへ持って行ったそうです。
和尚は、歴史的な建造物を再建する者としての覚悟に感動したそうです。
84歳となり、ガンを患った西岡常一は、なかなか現場に出ることができなくなり、薬師寺の住職に、棟梁としての引退届を提出しました。
薬師寺の粋な計らいに西岡常一は、男泣きしたといいます。
西岡常一の残した名言
「まず、木があって、道具ができる。その後で技術がある。」
「道具は物ではなく自分の肉体だと思って魂をこめて使うこと。」
薬師寺の修理の際に、西岡常一は、「電機カンナを使うが、表面が荒く、雨が入ると腐ってしまうため、最後は槍ガンナで仕上げる。本当は使いたくないけど、工期の関係で仕方なく使っている。」といいます。道具にこだわる西岡常一らしい言葉です。
「カンナをかけているときに息をすると、その瞬間に切れてしまう。」
これは、弟子にカンナがけの指導をしているときの言葉です。
作業中の息遣いにすら気を付ける、鬼らしい一言です。
「木組みで大事なのはみんなのココロがひとつになっていること。」
一人ひとりが、自分のやるべきことをきちんと理解していなければ心を一つにして落ち着いて作業をすることはできないそうです。
そんな西岡常一が、このDVDのインタビューで最後に語ったのは、
「失敗したら棟梁が腹を切るんだから思い切って仕事をしてほしい。合理的なことを考えずに、時間をかけていいから本当の仕事をやってほしい。ごまかしじゃなく、本当の仕事をやってほしい。」
という言葉でした。
鬼と呼ばれた男が、それでもたくさんの人から慕われていた理由が分かる、優しさにあふれた言葉でした。
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