今回紹介するのは、人気TV番組「プロジェクトX」の日清のカップラーメン開発の奇跡を取材した回です。
「プロジェクトX 魔法のラーメン 82億食の奇跡」が放送されたのは2001年10月16日です。
朝ドラ「まんぷく」で脚光を浴び、カップラーメン開発の歴史は、注目を浴びました。
ときは、昭和40年代、インスタントラーメンの開発から7年後です。
ドラマ「まんぷく」の放送ではかなり終盤あたりの内容が、このDVDの内容となります。
プロジェクトXでは、ドラマとは違い、社長の安藤百福(ドラマでは立花萬平)ではなく、カップラーメンの開発を直接行った松本邦夫、大野一夫、秋山晃久にスポットを当てています。
カップラーメン開発が始まった理由
昭和30年代にはインスタントラーメン(袋メン)で大成功した日清でしたが、350社もの競合が現れ、経営悪化により倒産寸前に陥っていました。
昭和40年代当時、業績の低迷していた日清は、アメリカ進出に活路を見出すため、インスタントラーメンの売り出しに出かけました。
しかし、アメリカにはどんぶりになるような皿がなく、インスタントラーメンが作れなかったのです。
そこで、カップに入った麺の開発がプロジェクトとして始まります。
麺の開発者 松本邦夫
松本邦夫は、日清の経営が傾いた頃に入社し、仕事がなく、外で草むしりをしていました。
給料は安く、製造途中で割れたインスタントラーメンを食べて生活していました。
カップラーメンプロジェクトの麺を作る作業に抜擢されたのが、新入社員の松本邦夫でした。
麺を揚げて乾燥させるのですが、それまでのインスタント麺のような平べったい形ではなく、カップに入るように厚みのある形で揚げる必要がありました。
その厚みが問題で、麺の中まできれいに揚がらないというトラブルが発生しました。
毎日20食以上ラーメンの試食を行う生活が始まりました。
最終的に見つけた解決策は、金型に入れた麺に隙間を作るということでした。
具の開発者 大野一夫
大学で生物化学を学んだ大野一夫は、日清が医薬品の開発に乗り出すと聞いて、就職を決めました。
しかし、大野が任されたのは、カップラーメンに入れる具を開発することでした。
医薬品の開発をしたかった大野は、安藤百福に、開発が不可能である理由を述べました。
そこで、安藤から言われたのが「だから君を呼んだんだよ。」という言葉でした。
最初は、乾燥食品を集め、お湯で戻すことを考えました。
しかし、当時3分で戻るような乾燥食品はありませんでした。
大野は、大学で研究した、抗生物質の生成方法を思い出します。
あらゆる食べ物をフリーズドライしてみる研究が始まります。
フリーズドライしても色や風味を保つための試行錯誤の連続です。
そんな中、社長の安藤百福から、「エビ」を具にするよう指令が入ります。
エビを鮮やかな赤色を残したままフリーズドライするために、世界中に2500種類もあるエビを片っ端から試していきます。
開発開始から8か月、大野は肉、卵、ネギの具の開発に成功していました。
大野は、大阪のホテルで出された、シュリンプカクテルの鮮やかな赤色から、プーバランというインド産のエビを知ります。
それが、エビのフリーズドライを解決する救世主となりました。
販売担当 秋山 晃久
昭和46年9月、いよいよカップラーメンが完成します。
しかし、どこの問屋もカップラーメンを取り扱ってくれません。
日本の食卓には、どんぶりで作れるインスタントラーメンがあるのに、わざわざ高いカップラーメンを買う人はいないと言われました。
秋山晃久は、プロ野球の球場でカップラーメンを歩き売りしました。
しかし、歩き売っているうちに、ラーメンは伸びてしまいました。
途方に暮れて夜の街を歩いていた秋山は、夜勤を行う消防士に飛び込みで販売してみました。
これが好評で、秋山は手ごたえを得ます。
夜の工事現場作業員、夜中まで残業するサラリーマンに次々と販売していきます。
そして、銀座の街で、1日でカップラーメンを2万食売るという大々的なプロモーションに出ます。
会社のどん底から一発逆転が起こった瞬間でした。
プロジェクトXという番組
この番組の一番よいところは、名もなき英雄たちにスポットを当てるところです。
華々しい活躍の裏には、命をかけて仕事をした人間たちのドラマがあります。
タイトルは魔法のラーメンですが、決して魔法ではない、社員たちのひたむきな努力がありました。
こういう目に見えない誰かの努力があって今の社会が成り立っている、ということに感謝することを忘れてはいけません。
プロジェクトXの記事
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