「プロジェクトX 男たち不屈のドラマ 瀬戸大橋」は、四国と本州を結ぶ、当時としては世界最大級の橋を建設した男たちの物語です。
歴史に残る船の事故から橋の建設が始まった
昭和30年、本州と四国の間にある瀬戸内海で、日本国有鉄道が所有する宇高連絡船紫雲丸が同じ宇高連絡船の第三宇高丸と衝突し、168人もの命が失われました。乗客の半分以上は、修学旅行中の小中学生であり、100人もの子供たちの命が失われた、日本の海難史上に残る事故となりました。
瀬戸内海は、濃霧により船の運転が困難となることがたびたびあり、この事故の当日も海は濃霧により視界不良でした。
「橋があれば。」
本州と四国を結ぶ、超大型の橋の建設が始まりました。
しかし、これは史上最大の難工事の始まりでもありました。
伝説の技術者 杉田秀夫
杉田秀夫は、瀬戸大橋が建設される地元、香川県の丸亀市出身、国鉄に就職しました。
瀬戸大橋という、大きな夢のため国鉄をやめ、昭和45年、本州四国連絡橋公団に入ります。
杉田秀夫は、地元の有名進学校出身で、東京大学を卒業し、国鉄に入ったエリートでした。
その杉田が、瀬戸大橋のために、自らの出世を捨て小さな公団に移籍しました。
そこで、坂出工事事務所長というリーダー役に就きます。
杉田は、海底調査のために自ら率先して海へ潜る、熱い人物でした。
瀬戸大橋の工事は何が難しいのか?
瀬戸大橋の工事は昭和53年に開始しました。
瀬戸大橋の工事は、最大で海底50メートルの深さに土台(ケーソン)を設置するという、それまでは世界に類を見ない難工事でした。
海底50メートルで、海流や水圧を計算しながら、ケーソンを設置することは世界に類を見ない難易度の工事でした。
杉田秀夫の功績の大きさ
瀬戸大橋が完成するまでにはたびたびの苦難がありました。
工事を行うにあたり、海底でダイナマイトによる発破を行う必要がありました。
実験段階で、発破によりたくさんの魚が死ぬことが分かりました。
杉田は、地元漁師の元へ向かい、繰り返し繰り返し説得を行いました。
何度も何度も反対され、説明会は500回にものぼりました。
杉田の情熱と根性に、地元漁師は彼を信用するようになりました。
オイルショックにより、工事の無期延期が決定したことがありました。
杉田はそんな中でも、再開する日にむけて、必死で調査を進めました。
いつ再開してもいいように、体を鍛えるため自転車で現場へむかいました。
工事が佳境を迎える中で、杉田に突然の不幸が訪れました。
妻の死。胃ガンでした。
わずか34歳という年齢でした。
妻の死の日まで、杉田は一切現場を休まず、仲間たちに心配をかけまいと妻の病気のことを伏せていました。
瀬戸大橋の完成
10年という歳月をかけ、瀬戸大橋は完成しました。
昭和63年4月のことでした。
偉大なるリーダー杉田秀夫は、後に母校丸亀高校で講演を行った際に言いました。
「橋が作れたからといって、何かあるわけではない。偉大なる人生とは何か、橋をつくることよりもっと難しい人生がある。」
とてつもない難工事を成し遂げた人間でも、人生というものは難しいと感じるものなのです。
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