翌日配達で高度経済成長期に流通革命を起こしたヤマト運輸

プロジェクトX ヤマト運輸 ドキュメンタリー
©NHKエンタープライズ

昭和時代、流通革命と呼ばれるほどの偉業を成し遂げた運送会社、ヤマト運輸

その大事業の中の、知られざる社員の努力を追いかけたのが「プロジェクトX 腕と度胸のトラック便 ~翌日配達・流通革命が始まった」です。

ヤマト運輸の革命をワンポイントでまとめた

  • 民間企業で初めて個人の宅配を始めた
  • 電話1本で家庭への集配をした
  • 全国各地への翌日配達を行った

ヤマト運輸のピンチ

昭和40年、国道1号線を大型家電を乗せてトラックドライバーが走り回っていました。

そのドライバーたちが、当時の流通の主役であり、全国のドライバーたちの憧れの的でした。

つまり、当時はメーカーの大型家電を販売店へ運ぶ大型トラックが流通で一番儲かる仕事でした。

 

ヤマト運輸は、当時新興で勢いのあった福山通運や、西濃運輸に顧客を奪われ、利益がゼロになり倒産寸前でした。

高度経済成長期で、運輸業が乱立し競争が激化した時代でした。

新社長の就任で経営を一新

社長が退き、息子である小倉昌男が2代目となり跡を継ぎました。

 

新社長は、会社を立て直すため、企業から依頼を受ける大口輸送ををあきらめて、各家庭に荷物を届ける小口荷物を扱うよう提案しました。

 

当時、家庭の小口荷物を扱っていたのは郵便局だけでした。

全国各地に拠点を持ち、細かいネットワークを持つ郵便局だから可能なのであって、今から民間企業が参入しても儲けられるわけがないと、社員たちはみんな反対しました。

しかし、このまま改革をしなければ会社は潰れてしまいます。

社員の反対を押し切り家庭用の運送を開始することとしました。

 

どうすれば郵便局に勝てるのか、会議で、社員が言いました。

「電話一本で家に取りに行こう。全国どこでも電話一本でかけつけよう。」

名案でした。しかし大きな問題がありました。

ドライバーが全く足りないのです。

それまであった営業部を潰して、ドライバー一人一人が営業を行うことで、ドライバーの数を確保することを考えました。

 

反対する社員たちも多かったですが、若手ドライバーたちは奮起しました。

改革を行うとき、その原動力となるのは若い力でした。

 

最初はとんでもない赤字を出した

家庭用の配送を行うため、まずは全国に拠点を20カ所作ることとなりました。

札幌には10坪の小さな営業所が作られました。

札幌営業所を任されたのが加藤房男でした。

早速営業を開始するために、ドライバーを広告で募集したところ、4人が集まりました。

といっても、いきなり家庭用の仕事があるわけではなく、まずは、各家庭にビラを配って回りました。

 

そしていよいよ迎えた営業初日、電話は一本も鳴りませんでした。

 

営業を始めて3ヶ月、ポツポツと家庭への荷物の仕事が出始めましたが、まだ数えるほどしかありませんでした。

その頃、本社では、家庭用の宅急便の赤字が重なりで倒産寸前でした。

トラックで配送を行うには、地域ごとに運輸省の認可が必要でした。

 

ヤマト運輸は、急いで全国各地でのトラック配送の申請を行いましたが、過疎地への配送の許可がおりませんでした。

トラックが不可能であれば、軽トラックで行くしかなありませんでした。

法律上、軽自動車であれば認可がない地域でも配達を行うことができました。
しかし、軽自動車だけを使っていたのでは赤字が解消されないのは明らかでした。

新社長は、社員たちが大口の配達をもっと増やそうと言う中で、大口を捨てて、家庭配達一本に絞ることを決断します。

北海道営業所の地道な努力が奇跡を生む

何か打開策を見つけようと一生懸命になっていた加藤房男は恥を捨てて、「郵便局の前で営業しよう。」と提案します。

郵便局でビラ配りを行いますが、足を止めてくれる人はほとんどいません。

足を止めてくれた人たちはこう言います。

「大事な荷物をわけの分からないところへ預けるわけにはいかない。」

 

もちろん仕事が増えるわけもなく、途方にくれました。

 

そんなとき、加藤房男の元に実家の母から油揚げと手編みの靴下が届きました。

その荷物には子を思う母のまごころがこもっていました。

 

加藤房男は、大切な荷物をまごころを込めて運ぶことの重要さに気づきました。

もう一度、営業をやり直そう、そう考えました。

 

郵便局の前に立ち、腰が折れるほど頭をさげました。

 

あまりの熱心さに、一人の老人が加藤房男に話しかけます。

「大事な荷物なので、家族の元へ運んでほしい。」

 

丁寧な営業をひたむきに続けることで、仕事は少しづつ増えはじめました。

 

ある猛吹雪の日、加藤房男は、車が前に進まず、徒歩で配達先まで向かうことにしました。

絶対に届けるんだ、という強い意志でした。

前が見えず、自宅の場所が分からず、2時間歩き続けたが、とうとう配達先を見つけることができませんでした。

結果は残念でしたが、命の危険すらある中で、必死に配達を行いました。

 

電話一本でかけつけてくれる宅急便は、すこしづつ認知されていき、遠く離れた過疎の町から電話が鳴るようになりました。

しかし、1件1件一生懸命配達しても、過疎地は走れば走るほど赤字になっていきました。

 

加藤房男は、このまま続けていいのか本社に尋ねました。

 

新社長は言いました。

「おおいにやればいい。」

 

そんな折、猿払村からホタテを全国のお客さんに送りたいという依頼が来ました。

これだ、と加藤房男は思いました。

「新鮮直送。全国へ翌日配達。」

 

札幌支社の電話が鳴りやまなくなりました。

 

そして、流通革命へ

そして、よい話はつながっていきます。

ドライバーたちが積み上げていった配達の信用が認められ、全国での配送の免許が徐々に認められていきました。

 

それは、戦後最大の流通革命と呼ばれました。

 

 

全国の新鮮な食べ物が翌日届く。

今では当たり前のように人々に利用されていますが、そのシステムが完成するまでには、ドライバーたちの並々ならぬ努力があったことを忘れずにいたいものです。

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