社内ベンチャーでセブンイレブンを作りイトーヨーカドーの経営を立て直した社員

プロジェクトX セブンイレブン ドキュメンタリー
©NHKエンタープライズ

日本の高度成長期であった西暦1970年代、大手チェーンスーパーの経営を行っていたイトーヨーカドーは、業界17位と低迷していました。

ここから、コンビニセブンイレブンの経営を行うことにより、イトーヨーカドーは一気にトップに昇りつめることとなります。

しかし、その裏には途方もない努力と苦労が隠れていました。

「プロジェクトX 日米逆転!!コンビニを作った素人たち」は、2000年10月31日にTV放送された、コンビニを日本に作った人たちの物語のDVDです。

そのDVDの内容を元に、セブンイレブンの軌跡を解説したいと思います。

二人のキーパーソン 清水秀雄と鈴木敏文

会社は、低迷する経営状態を改善するため、店舗開発に、当時会社初の短大卒業の清水秀雄を選びました。

当時、イトーヨーカドーには資金が全くなく、新たな店舗の出店にあたって、資金不足から畑の真ん中の土地を選ばれなければならない状況でした。

元々若くして要職に就いた清水のことを良く思わない社員も多く、失敗は店舗開発担当の責任とされ、清水は1人しかない部署にとばされてしまいます。

時を同じくして、組織の体質に疑問を感じていた鈴木敏文は、新たな事業を探していました。

鈴木は清水を誘い、新たな事業を探すため、二人でアメリカへ行きました。

アメリカでの奇跡の出会い

二人は、アメリカ中の有名スーパーを片っ端から回ってみましたが、アメリカならではの莫大な資金を使った巨大なスーパー経営は、イトーヨーカドーにとっては全く参考になりませんでした。

ある日、長距離バスを降りたところに、混雑する小さな商店を見つけました。

何となく入ってみると、そこには全く値引きされていない商品がたくさん並び、お客がそれを買い求めていました。

鈴木は、直観で「これだ」と思いました。

その店こそが、セブンイレブンでした。

鈴木と清水の二人は、テキサス州の本社に行き、話を聞きました。

100を超えるマニュアルこそがセブンイレブンの発展の秘訣だと聞きました。

そのマニュアルを手に入れるため、交渉を行いますが、相手は日本にノウハウを売るつもりは全くなく、高額な契約金をふっかけてきました。

鈴木はそれでもこのビジネスに光を感じ、高額な契約を結びました。

契約を結ぶとき、あまりの金額に清水は震えました。

コンビニプロジェクトの始動

日本に帰った二人に、本社の役員たちは冷ややかでした。

小売店は日本にはたくさん存在しており、誰もセブンイレブンが成功するとは思っていませんでした。

社長からは、資本金の半分しかお金を出せないと言われました。

鈴木と清水は、新会社を立ち上げ、自分たちの資産を食いつぶしてお金を工面しました。

セブンイレブンは社内ベンチャーという形で始まりました。

この新会社は、二人で行い、じぶんたちでプロジェクトのメンバーを集めるところから始まりました。

メンバーの一人には、組合活動をして会社からにらまれていた岩國修一がいました。

広告で募集した社員として15人が集まりました。

元自衛官や、パン屋など、まさに素人の寄せ集めでした。

イトーヨーカドーの会社の片隅を借りて事業が始まりました。

まずは、アメリカから届いたマニュアルの翻訳から始めました。

そこに書かれていたのは、ただのアルバイト用のマニュアルでした。

鈴木たちは窮地に立たされました。

自分たちで出店場所を探すところからはじめないといけなかったのです。

出店場所などの大事な事項はマニュアルに書かれていると思っていたのが、裏切られました。

出店場所を提供してくれる人を探すため、広告で募集を出しました。

そこに応募したのが、セブンイレブン1号店の経営者となる山本憲司でした。

お金がなく、出店者がいなければプロジェクトがとん挫する危険にあった鈴木たちにとって、山本の登場はわずかな希望の光でした。

山本憲司は元々酒屋を営業していましたが、銀行から借り入れを行い、2000万円をかけてセブンイレブンの店舗に改装しました。

いよいよセブンイレブン1号店開店

記念すべき第1号店の開店は昭和49年5月のことでした。

1か月目の売り上げは、酒屋時代の倍になりました。

しかし、電気代やアルバイト代、本部へのロイヤリティを考えれば、酒屋時代と変わらない利益でした。

このままでは山本は借金を返済することができずに押しつぶされることになります。

鈴木たちは焦りました。自分たちのせいで山本の人生を壊すわけにはいきませんでした。

開店から半年、ギリギリの経営を続けていました。

ある日、店に行き掃除を手伝っていた岩國が、あまり過ぎている在庫と、品切れしたままの在庫があることに気づきました。

当時は大量発注が常識の時代、少量発注は難しかったのです。

コンビニは大量の商品を置かなければならず、山本の家は大量発注した在庫で埋め尽くされ、新しく発注を行うこともままならない状況となっていたのです。

鈴木は、固まった地域に集中して店舗を立て、複数の店舗で発注をまとめられるようにしようと発案しました。

セブンイレブンの経営の心臓である、ドミナント戦略はこうして生まれました。

その間、社員が毎日手作業で、売れる商品と売れない商品を集計し、徹底的に商品を選別することで、新たなマニュアルが作られていきました。

これらの作戦が大当たりし、山本商店は息をふきかえしました。

そして、周りに作ったセブンイレブンの経営も順調に推移し、店舗数はどんどん増えていきました。

ほどなくしてコンビニが、時代の長者となりました。

アメリカ、セブンイレブン本社の危機

平成2年、アメリカのセブンイレブンが、債務超過に陥りました。

放漫な経営により、再建は不可能といわれる状態でした。

鈴木は、自分たちが作ったマニュアルをアメリカに持っていき、セブンイレブンの立て直しを図りました。

経営状態は、みるみるよくなり3年で黒字化しました。

アメリカでは、このセブンイレブンの復活が戦後最大の再建劇といわれました。

 

この物語の感動ポイント

  • 自分たちは、アメリカでのセブンイレブンとのやりとりで痛い目にあっているのに、逆にアメリカが困っているときは全力で助けるという、イトーヨーカドーの社員たちの優しさ
  • 第1号店を成功させ、なんとしても山本を助けたいという社員たちの必死の努力

高度成長期を支えた日本人の魂の仕事を感じられる作品でした。

他のプロジェクトXの記事

プロジェクトXに関する記事をまとめました

コメント