北海道の南に尖がった地形の先、何もない、えりも岬の砂漠に一本づつ木を植え、森を作るプロジェクトを追った、プロジェクトXのドキュメンタリーです。
今回の主人公は、こんぶ漁師の飯田常雄(いいだつねお)です。
そもそも、えりも岬が砂漠であったことを知っている人も今では少ないと思います。
えりも岬の砂漠を緑にし、現在の豊富な漁場であるえりも岬を作った一人の男の奇跡と執念の物語は大きな感動をもらえる回です。
このストーリーのポイント
- 人は簡単に自然を壊す
- 壊れた自然を治すにはとんでもない時間と労力がかかる
- 諦めずに努力し続けることが奇跡を呼ぶ
えりも岬が砂漠だった頃
昭和初期に、えりも岬に住む人々は、あまりの砂ぼこりの量のため、外出するときは頰被りをしていました。
北の大地の荒れた海は、砂漠の赤土が流れ込んで、真っ赤に染まっていました。
まさに地獄のような景色が広がっていたのです。
なぜえりも岬は砂漠になったのか?
元々、えりも岬は、明治時代はこんぶ漁がさかんな地域でした。
たくさんの人がえりも岬で漁をするため移住してきましたが、その人たちが、寒さをしのぐため、えりも岬の木をどんどん切り倒していきました。
少しずつ木が減っていき、地面があらわになり、土が海に流れこんでいきました。
海が真っ赤に染まり、たくさんのこんぶが死にました。
そうして、ほとんどこんぶが取れなくなった海から人々は去っていき、残された人たちは、細々と漁を続けて貧しい暮らしをしていました。
砂漠を森に えりも岬復活プロジェクト
1953年、「砂漠を森に」というスローガンの元、地元の若い漁師50人が立ち上がりましたた。
まずは、木を植える下地を作るために、砂漠に牧草を植え始めました。
しかし、苦労して植えた牧草は、強風によって全て飛ばされてしまいました。
それができない理由があるのです。
木のない平らな大地である、えりも岬の強風は、砂ぼこりを巻き上げ、家にまで砂が入ってくる、ときには食べ物にまで砂が入るほどの強風が吹き荒れる場所でした。
一つの閃きから奇跡が始まった!
解決方法を探していた飯田常雄は、ある日ゴダという海藻が浜辺にあるのを見て閃きました。
砂漠にゴダを敷き詰めて牧草を守ることを考えました。
敷き詰めたゴダの下に蒔いた牧草のタネから芽が出ました。
奇跡の始まりでした。
しかし、巨大な砂漠全てに種を植えるには人が足りませんでした。
50人の若者たちが、自分たちの家族も巻き込んで牧草を植えました。
漁が終わったら、砂漠へ行き牧草を植える生活。
とてつもない作業量でした。
やがて努力が実り、2年がたち、砂漠の4分の1が牧草になりました。
砂漠全体のたった4分の1に牧草を植えるのに2年です。それで砂ぼこりが止まるわけでもなく、きれいな海が戻るわけでもありません。
木を植える準備をするための作業の4分の1に2年がかかったのです。
それでも男たちはあきらめませんでした。
やっとの思いで下地が完成した
10年がたち、昭和45年、全ての砂漠の土地が牧草になりました。
ここから、木を植えはじめました。
海風に強く、海岸によく植えられている黒松を植えることとしました。
黒松を植え始めて1週間たつと木が枯れ始めました。
また、途方にくれます。
あきらめない飯田常雄は、翌年、地層の研究を開始しました。
砂漠をある一定の深さまで掘ると、水が多く含まれる地層があることが分かりました。
みんなが、つるはしを持ち、この地層を掘り起こし、水を流す作業を始めました。
砂漠全体を掘り起こしていく、途方もない作業です。
息子が見た飯田常雄の奇跡
昭和52年、過労で飯田常雄は倒れました。
心配した妻は、18歳になった息子の英雄に頭を下げて、大学に行かずに漁師を継いでもらえるよう説得しました。
息子は、嫌々ながら地元に戻ってきました。
漁師だけでは食っていけないので、建設業ではたらきました。
ある日いつものように漁に出た英雄は、海が少し青くなっていることに気づきました。
建設業で培ったパワーショベルの技術を使って、父と同じ場所で溝を掘り始めました。
えりも岬の伝説
えりも岬には、「流氷が全てを洗い流してくれる」という言い伝えがありました。
砂漠に木を植え始めて、緑が増え始め、かつての強風は弱まり、砂ぼこりが少なくなりはじめていた頃でした。
ある特別に寒かった冬、流氷がえりも岬へ流れ着きました。
流氷は、赤土を洗い流し、海をきれいに循環させました。
翌年、えりも岬では真っ黒できれいなこんぶが育ちました。
あきらめない男たちの途方もない努力が実った瞬間でした。
飯田常雄の努力を常に隣で見ていた妻はいいます。
「えりも岬のこんぶは世界一のこんぶです。」
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