歴史秘話ヒストリアは、渡邉あゆみ司会によるNHKのテレビ番組です。
今回は、独眼竜・伊達政宗について特集した放送回をDVD化したものを紹介します。
伊達政宗のかっこいいポイント
- 黒一色に塗り上げられた見事な鎧
- 奇抜なファッションを次々と繰り出したミスター戦国ダンディ
- 実際はダンディとは程遠いがけっぷちの人生
- 武力で有名な武将と思いきや、実は知略に長けた武将
伊達政宗のなかなかに壮絶な生い立ち
伊達政宗は、出羽の国(山形県)、米沢で生まれました。
当時、戦国時代の東北は小さな大名たちが領地争いを続けていました。
政宗は、5歳のとき死の病として恐れられていていた天然痘にかかってしまいます。
当時は死亡確率50パーセントという危険な病気でした。
一命をとりとめますが、後遺症により右目の視力を失ってしまいます。
これがきっかけで政宗は心を閉ざしてしまいます。
これを何とかしようと、父は、虎哉宗乙(こさいそういつ)という臨済宗妙心寺派の名僧に、政宗の教育を依頼します。
虎哉宗乙の教えにより、伊達政宗は中国に李克用(りこくよう)という独眼竜と呼ばれた優れた武将がいたことを知ります。
自身も強くなりたいと思った政宗は、家臣の片倉小十郎景綱(かたくらこじゅうろうかげつな)に、短刀で自身の右目を取り去るよう命じます。
伊達政宗の快進撃
戦国大名の跡取りとしての覚悟を持った政宗は強く、領土を拡大していきました。
ところが、蘆名(あしな)、佐竹(さたけ)などの大名が反政宗の連合軍となり、3万の兵で襲ってきます。
それに対し伊達軍の兵は7000人。
ここで、政宗はあの李克用の軍を真似し、真っ黒の鎧を身に付けます。
伊達軍の士気は一気に上がり、見事勝利を納めます。
豊臣秀吉の登場によるピンチ
天正17年(1589年)、政宗が23歳のとき、会津の蘆名氏を滅ぼし、114万石を束ねる奥州の覇者となります。
とうとう豊臣秀吉に目を付けられることとなります。
そこで伊達政宗は、浅井長政や前田利家に贈り物をし、秀吉を説得してもらいます。
そして、小田原攻めに参加するよう秀吉から命令がくだった際、政宗は白装束で豊臣秀吉の前に現れ、秀吉への忠義を現し、信頼を得ます。
しかし、その後、東北で一揆が起こった際に、秀吉は政宗の関与を疑いました。
ピンチが続きます。
政宗は、白装束に磔用の柱を持ち、都の大通りを歩きました。
また政宗は難を脱し、秀吉からの処分は東北での領地替えにとどまりました。
パフォーマンスの影響力を知った伊達政宗は、今度は自分から打って出ます。
都でのパレードがあった際、兜は1m以上ある三角、朱色の刀、ヒョウ柄の馬具など、ド派手な衣装で練り歩きました。
群衆は歓喜し、豊臣秀吉もこれに感嘆したといいます。
伊達政宗と徳川の時代
関ヶ原の戦いでは、伊達政宗は徳川軍に味方し見事勝利を納めますが、報償はほとんどありませんでした。
伊達政宗は、天下をあきらめ自らの領地の発展に力を入れます。
仙台に新しい城を築きますが、幕府ににらまれないよう天守閣を作りませんでした。
北上川の治水工事を行い、荒れ地を水田にしました。
しかし、外様大名の領地の発展を警戒した徳川幕府は、締め付けを強め、江戸の工事の費用を負担させます。
伊達家は借金を抱えるほどの財政難となってしまいます。
伊達政宗は、興行や鷹狩など、遊びにほうけ、幕府への反抗心がないことを示します。
徳川家康は、これに大変喜んだといいます。
伊達政宗が死んだ際、徳川三代目家光は、徳川御三家に匹敵するほどの長さの喪に服しました。
伊達政宗がどれほど徳川家から信頼を得ていたかを示すエピソードです。
独自の手法で権力者との争いを避け、豊臣秀吉、徳川家康という怪物たちから自らの領地を守った伊達政宗。
世渡り上手な伊達政宗は、現代に生きていても出世しそうな人です。
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