真田幸村といえば、元々は講談で話され、文庫本の「真田十勇士」で有名になった戦国武将です。
また、戦国BASARAなどの戦国系ゲームでは、いつもイケメンで描かれています。
「歴史秘話ヒストリア 真田幸村 編」では、大阪の陣で徳川軍と戦い、英雄となった男は、本当はどんな人物だったのか、その男意気に迫ります。
真田幸村を知るポイント
- イケメンで描かれる真田幸村が活躍したのは実は40歳を超えてから
- ほとんど戦の経験がなかったのに一躍戦国の主役に
- 自らのプライドのために死を選ぶ傾奇者
実際の真田幸村
真田幸村は、実は関ヶ原の戦いまで、国内で大きな戦がなかったため、ほとんど戦の経験がありませんでした。
真田昌幸・幸村親子は、関ヶ原の戦いで西軍の石田三成に就き、上田城での籠城戦で徳川軍に大打撃を与え、一気に戦国の有名武将となります。
大活躍しますが、結局西軍は徳川軍に敗れ、和歌山県の九度山に幽閉されてしまいます。
幸村だけで10人の子供、家臣とその家族も合わせると50人を養っていく必要があります。
幸村たちは、九度山の人に援助を受けながらなんとか生きていました。
元々九度山は、徳川軍や豊臣軍に常に攻め込まれ被害を受けていた地域であり、徳川軍を撃退した真田幸村たちは、この地の人々にとって英雄でした。
九度山には今でもたくさんの幸村の伝説が残っており、英雄としてたてまつられています。
しかし、幽閉は長く続き、11年目に父、真田昌幸が死にます。
幽閉14年目、幸村の運命が開かれます。
豊臣家からの手紙、「豊臣に力を貸し徳川と戦ってほしい。」
幸村は九度山脱出を試みます。
しかし、脱出には徳川の領地を抜けていく必要があります。
九度山の人々の助けを得て、幸村は脱出に成功します。
大阪の陣での真田幸村の大活躍
大坂冬の陣で、真田幸村は、真田丸という砦を築きます。
豊臣軍の最先陣です。
その砦にいた兵士は5000人、十倍以上の徳川軍を相手に、得意の籠城戦で大活躍します。
真田幸村により多大な損害を被った徳川軍は、豊臣軍と和睦を結ぶことになりました。
しかし、和睦の証として、真田丸を取り壊すこととなってしまいます。
大阪城の堀も埋められ、豊臣方についていた武士たちは大阪城を出ていきました。
真田幸村は徳川から「家臣にならないか」と打診されますが、これを断ります。
幸村は、自らの命よりプライドを選んだのです。
真田軍の鎧を真っ赤に染めて、決死の覚悟で大阪夏の陣に臨みます。
しかし、自らのプライドのため死に場所を選んだ真田幸村のかっこよさ!
これが、現在でも人々に真田幸村が愛されている理由です。
豊臣軍に対し徳川軍は3倍以上の兵力を持っていました。
大量の鉄砲を持つ徳川方の伊達軍に、豊臣軍は苦戦します。
そこに現れたのが真田軍です。
得意の引き付けて押し返す戦法で、伊達軍を退けます。
天王山に陣を敷いた豊臣軍ですが、徳川軍に押されていきます。
もはや、作戦は崩れ、死を覚悟した真田軍3000は、徳川軍本陣に向かい突撃します。
家康本陣まであとわずか、いよいよ家康が切腹を覚悟したところで、徳川軍の援軍に押し返されてしまいます。
そして、真田幸村戦士。49歳のことでした。
その夜、豊臣軍は破れ、戦国時代は終わりを告げました。
真田軍の圧倒的な戦いは、敵の徳川軍の心までもつかみ、数々の大名があっぱれの言葉を残し、真田幸村は一種の伝説のようになりました。
戦国武将として一番大事な30代の時期を幽閉されて過ごした真田幸村が、日本中にその名を轟かす豪傑となりました。
常に死を覚悟して全力で生きる真田幸村の姿は、現在でも人々の憧れの的であり続けています。
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