「社長の汗と涙の塩物語」は、株式会社ESSPRIDEを経営する西川世一が、社長チップスを作る中で出会った8人の社長さんたちの汗と涙の物語を一冊の本にまとめたものです。

©株式会社ESSPRIDE
- 鮮魚食料品まるしげ(漁亭浜や) 佐藤智明
- ユニオンテック株式会社 大川祐介
- 株式会社ジールホールディングス 薮崎真哉
- 株式会社あしたのチーム 高橋恭介
- トークノート株式会社 小池温男
- 株式会社ジオベック 望月雅彦
- 木下サーカス株式会社 木下唯志
- 株式会社田村道場 田村憲司
漁亭浜やのストーリー
漁亭浜やは仙台市に1993年開業しました。
佐藤智明は、先代・佐藤茂夫の跡を継いで2001年に代表取締役に就任しました。
地元の鮮魚店が経営する海鮮料理店は、新鮮で味が良く、地元の人たちに愛されていました。
突然全てを失った
しかし、2011年の東日本大震災による津波で店舗、自宅を全て失います。
自己破産を考えましたが、お客さんの「また浜やの浜丼が食べたい」という言葉に勇気づけられ、会社存続を決意します。
そこに追い風が吹きました。
震災復興資金で、現在の借入を凍結したまま新たな融資を受けることができたのです。
そこからさらに追い風が吹き、震災の跡地に、浜やを再開してほしいと声がかかります。
その後は勢いに乗って5店舗を次々と出店し、瞬く間に地元民に愛される憩いの場が戻ってきました。
佐藤智明の言葉
「モノやお金がなくなっても命さえあれば、そして人と人がつながってさえいれば絶対に再起できる」
つらい震災を経験して立ち上がってきたからこそ説得力のある言葉です。
ユニオンテック株式会社のストーリー
ユニオンテック株式会社の大川祐介代表取締役は、元々建設業で働いていました。
それまでの経験を活かし2000年にクロス・床等内装仕上げ工事業で独立しました。
独立してしばらくほとんど仕事はありませんでした。
チャンスをつかむ
開業4ヶ月目に、たまたまスナックで飲んでいたときに知り合った薬局の専務に、新しく開店する店舗の内装を全て依頼されます。
大川祐介は、クロス貼りの経験しかなかったのですが、「できます!」と勢いよく請け負ってしまいました。
何をどうしていいかも分からず、知り合いの設計士に電話して、何をしたらいいのか聞きました。
職人を電話で集めて、素人なので教えてくださいと頭を下げて、仕事を依頼しました。
とにかくどんなことでも「できます」と積極的に受けていき、会社は次第に大きくなっていきました。
会社が大きくなると表面化した問題
会社が大きくなるにつれ問題が表面化します。
大川祐介は、職人気質で、仕事を徹底的に勉強して納得いくまで繰り返し練習するタイプの人間であったため、自分にも他人にも厳しく、社員を叱責することも多々ありました。
そのため、社員の離職が多く、採用しては辞めていくの繰り返しでした。
当時大川祐介は、自分のせいで社員がたくさん辞めていっている事実に気付いていませんでした。
敏腕専務の存在が社長を変えた
会社の現状に危機感を覚えた川島専務は意を決して、「このままでは社員がついてこない。社長一人で何でもできるわけではない」と社長本人に伝えました。
信頼していた川島専務の言葉に大川祐介は心を打たれました。
夜中自宅で、自分の欠点を1つづつ紙に書き出していくうちに、自分の情けなさに涙が止まりませんでした。
その欠点を一つづつ直していくうちに、社員がチームになっていくのを感じました。
取引先から、ユニオンテックの結束力はすごいと言われるほどになりました。
株式会社ジールホールディングスのストーリー
株式会社ジールホールディングスの薮崎真哉は、Jリーグの柏レイソルで6年間プレーしたプロサッカー選手でした。
2008年にWEBマーケティングのジールコミュニケーションズ、そして2013年にジールアスリートエージェンシーを設立しました。
株式会社ジールホールディングスは、その2社を統括する会社です。
サッカーでの挫折
サッカーに夢中になっていた薮崎真哉は、柏レイソルに入団しプロサッカー選手になれたことに満足し、夜遊びを覚え、毎日飲み歩くようになります。
一軍はおろか、二軍の試合にも呼ばれないようになっていき、ついには戦力外通告を受けてしまいます。
生活のためとにかくお金を稼ぐ必要があったため、とりあえず営業の求人に応募し、仕事を始めます。
輝きを取り戻すために起業
もう一度全力で仕事に取り組みたい、サッカーのときのような中途半端で終わりたくないと思った薮崎真哉は、それまでの仕事の経験から、26歳で飲食店の出店コンサルティングの会社を起業します。
売上は順調にのび3年目には20億円となりましたが、特殊な業界特有のリスクの大きさに会社が耐えられなくなり解散することとなってしまいます。
その後ウェブリスクコンサルティングの企業として復活しました。
ガムシャラに努力して、成功したら堕落してしまい、また失って努力するという社長の人間らしさがよく出ているストーリーでした。
株式会社あしたのチームのストーリー
高橋恭介が起業した、株式会社あしたのチームは、それまでの仕事の経験を活かした、人事評価制度の構築・運営を行う会社でした。
しかし、リーマンショック直後という最悪のタイミングでの起業で、どの会社もむしろ人員を整理したい状況であり、仕事は入ってきませんでした。
倒産寸前の会社に問題が起こる
そんな中、退職した社員から未払いの残業代の訴訟を起こされてしまいました。
なんとか和解にもちこむことに成功しましたが、高橋恭介は「社員とは何か」について悩むようになりました。
アベノミクスによってじわじわと雇用が回復するにつれて会社の業績もあがっていきました。
会社の成長に従い、社員とどう関わっていくのかをもっと考えるようになります。
実の兄とも家族のように話すのではなく、会社では社長と社員の関係を明確にして会話するよう注意しました。
高橋恭介の言葉
「本当に社員を家族だと思ったら、足元をすくわれます。」
人事の難しさを経験した社長らしい言葉です。
トークノート株式会社のストーリー
SNS用のコミュニケーションツール「Talk Note」で有名なトークノート株式会社を経営する小池温男( こいけはるお)のストーリーです。
最初の起業での失敗から生まれたコミュニケーションツール
小池温男は、イタリアンの飲食店を経営していましたが、求人広告を行った際に、広告掲載にお金を取られ、人が集まったらそこでもお金を取られる二重の料金システムに疑問を持つようになりました。
そこで、小池温男は成果報酬型の求人サービスを行う会社を起業しました。
意気揚々と事業を開始した小池温男でしたが、20人いた従業員のほとんどが、短期間にみんな退職してしまいました。
社長が何を考えているかがうまく伝わらず、コミュニケーション不足が原因でした。
その経験から、社内特化型のSNSコミュニケーションツールTalkNoteを作りました。
これが軌道にのり会社は大きく発展しました。
自己の経験や失敗をいち早く事業にする社長の行動力はすばらしいものがあります。
株式会社ジオベックのストーリー
株式会社ジオベックを経営する望月雅彦の物語です。
ピンチが重なり倒産寸前
株式会社ジオベックは、企業のITソリューション事業を行なっていたが、リーマンショックの影響で、会社が倒産寸前となります。
さらに、同じ時期に父親の建設会社が倒産します。
望月雅彦は、連帯保証人となっていたため二重の苦しみに襲われます。
あきらめずに金策
会社はいつ倒産してもおかしくない状況でしたが、望月雅彦は、必死で金策を行いました。
あきらめずに努力した結果、知り合いの社長たちが事業の将来性に賛同してくれ、出資してくれることとなりました。
会社は持ちこたえ、今では1800ユーザーを超える導入例を抱える事業となっています。
望月雅彦の言葉
「あきらめずに続けること。さらに昨日よりも今日と、少しでも前進することが会社を経営するためには必要だということ。」社長は言います。
木下サーカス株式会社のストーリー
木下サーカス株式会社を経営する木下唯志( きのしたただし)の物語です。
突然社長になる
木下唯志は、元々は、木下サーカスの社員の一人として働いていました。
しかし、突然の兄の死により、経営を引き継ぐことになってしまいました。
右も左も分からない状況に加え、会社は10億の負債を抱える状態でした。
創立100年の歴史を持つ会社でしたが、倒産したほうがよいと税理士からいわれました。
木下唯志のあきらめない姿勢
木下唯志は、学生時代剣道で培った 一日一死 の精神で、絶対にあきらめない姿勢で仕事にむかいました。
剣道以外にもう一つ、木下唯志は、壮絶な過去の経験により強靭な精神力を持っています。
木下唯志は、入社して3年目、マイコプラズマ肺炎にかかり、3年もの療養を要しました。
そこで、全てのことに感謝し、謙虚になるということを学びました。
努力のかいも実り、社長の代で全ての借金を返し終えました。
日本を代表するサーカスは今も前進し続けています。
株式会社田村道場のストーリー
株式会社田村道場を経営する田村憲司の物語です。
名前だけ聞いても誰のことか分からないかもしれませんが、焼肉たむらのたむけんといえば、あのふんどしでししまい持っているお笑い芸人だとわかる人も多いと思います。
焼肉屋を継いだきっかけ
元々は、義母がフランチャイズの焼肉屋を5店舗経営していました。
義父が亡くなったことにより義母はお店をたたもうとしていましたが、経営権の支払いだけが残ってしまうため、続けたほうがいいと知り合いの社長から言われます。
たむけんは、負債を引き受ける覚悟を決めて義母から経営を受け継ぎます。
そして、フランチャイズを抜けて独自の店舗を作るという苦難の道を選びます。
絶対にテレビを利用しない姿勢
当初は、タレント力を使わないため、焼き肉屋を経営していることは仲間やファンには一切内緒にして営業していましたが、舞台で先輩が勝手にしゃべってしまいました。
テレビのロケも断れなくなってしまい、とうとう後輩芸人が来ることになってしまいました。
後輩芸人にはロケの前に「うまい」と言わないように念を押しました。
そして、芸人たちは笑いを取ろうと「まずいまずい」と言いながら食べました。
逆にそれが話題となって店にはたくさんのお客さんが行列を作るようになった。
食中毒事件が起こる
しかし、よい時代は続かず、ニュースでも話題になった焼肉たむら食中毒事件が起こってしまいます。
田村憲司は、事件の内容を一切隠さず、すぐに会見を開いて謝罪しました。
田村憲司の誠実さが受け入れられ、被害は最小限で済みました。
その後の東日本大震災による風評被害で焼肉屋全体が傾いていたときも、何とか乗り切って経営を続けています。
まとめ
各社長さんともたどってきた道のりはバラバラですが、大きな苦難を乗り越えてたくましく成長してきた人ばかりです。
汗と涙の塩味を味わって成長してきたからこそ人の心に響くのでしょう。
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