「その時歴史が動いた~諸葛亮孔明編~」は、劉備玄徳(りゅうびげんとく)と諸葛亮公明(しょかつりょうこうめい)の出会いから、中国三国時代の歴史がどのように変わっていったのかを描いた作品です。
三国志は、魏・蜀・呉という3つの国を描いた物語ですが、その中でも人望に厚く人気を集め、物語の主人公になったのが蜀という国を作った劉備です。
劉備はもともとは財も軍ももたないただの村人でした。
その劉備が裸一貫から皇帝まで上り詰めた大きな要因となったのが天才軍師、諸葛亮孔明です。

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弱かった劉備軍
劉備は小さな頃から家の近くの木に登り、「皇帝になる」と言っていたそうです。
その父を幼い頃に亡くし、母と二人貧しい幼少期を過ごしました。
西暦184年に黄巾の乱が発生すると、劉備は関羽・張飛らとともに義勇軍を作り活躍し名を上げます。
劉備軍はどんどん戦果をあげていきますが、元々富も兵力も少ない劉備軍は兵力を増強することができず、西暦200年、曹操の軍に敗れてしまいます。
劉備は荊州(けいしゅう)に逃げ込み、その後6年もの無駄な時間を過ごし46歳となってしまいます。
天才孔明との出会い
そんな中、劉備はある天才のうわさを聞きつけ希望を見出します。
それが諸葛亮孔明です。
世間から離れ郊外の小さな家に住んでいた孔明ですが、街中の人が知る天才でした。
人はそんな公明のことを「臥龍」と呼びました。
ここで有名な「三顧の礼」が行われます。
劉備は三度も孔明の元を訪れ、その礼儀の深さに公明は心を打たれて協力することを決めたのです。
劉備はどうやって孔明を見つけ出したのか?
気になるのは、どうやって劉備は孔明のことを知ったのか、ということです。
当時の中国には、いわゆる「人物鑑定人」という職業の人がいたのです。
人物鑑定人は人の素性と知見を調べて人物を評価する会を開いていました。
その会合で劉備は孔明の友人である徐庶と知り合い、彼のことを知ったのではないかと言われています。
劉備軍の反撃開始
天才軍師孔明を手に入れた劉備ですが、そこには曹操という強大な敵が待ち構えています。
そこで、公明は曹操と孫権を争わせることを考えます。
しかし曹操軍は20万、孫権軍は3万、戦力に差がありすぎました。
孫権軍は曹操に降伏することを考え始めていました。
そこで孔明は孫権を訪れ、「早く降伏すればいい。劉備軍は曹操ごときに降伏することはないが。」と挑発します。
赤壁の戦い
曹操打倒を目指した孫権を動かすことに成功したことにより三国志のクライマックス「赤壁の戦い」が始まります。
圧倒的な曹操の軍事力に対し孔明が取った作戦が、「東南の風」です。
このとき孔明は儀式を行い神風を呼んだとされていますが、近年の研究では、事前に現地の人々に調査を行い東南の風が吹くことを知っていたという説が有力です。
そして、見事曹操軍に大打撃を与えることに成功しました。
これ以降、劉備は歴史の表舞台に立ち、曹操、孫権、劉備が並び立つことになります。
その後の劉備と孔明
赤壁の戦いの後、領地荊州(けいしゅう)の隣の益州(えきしゅう)で争乱が起き、劉備は立ち上がり平定し、蜀(しょく)を建国します。
しかし、孫権軍の裏切りに会い、関羽と張飛が命を落としてしまうことになります。
義を重んじる劉備は孔明を置いて、孫権に復讐の戦いを挑むこととなりますが、天才軍師孔明と関羽、張飛のいない状況では歯が立たず大敗北を喫してしまいます。
死の間際の劉備と孔明
病に伏せた劉備は、死の間際に孔明を呼びこう伝えたます。
「もし、わが子の才能が君主にふさわしくないと思ったら、無理することはない。君がとってかわって君主となってくれ。」と言います。
それに対し孔明は涙を浮かべ「私はあくまでも家臣として補佐に徹し死ぬまで劉備どののご子息に尽くします。」と答えます。
劉備の中華統一の夢は、諸葛亮孔明にゆだねられることとなりました。
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