借金をして日本のために私財をつぎ込んだ政治家・大久保利通

大久保利通 ドキュメンタリー
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1878年(明治11年)5月14日、明治政府の最高実力者といわれる大久保利通(おおくぼとしみち)が暗殺されました。

明治政府で活躍した人というのは分かっていても、実際にどんなことをした人なのか知らない人が多いのではないでしょうか。

そんな大久保利通のドラマを描いたのが「その時歴史が動いた 大久保利通編」DVDです。

大久保利通と薩摩藩

大久保利通は、西郷隆盛(さいごうたかもり)と同じ薩摩藩(鹿児島県)の出身です。

1868年、大久保利通は、西郷隆盛とともに薩摩藩を率いて鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍を倒します。

西郷隆盛と大久保利通は小さな頃から兄弟同然に育った親友でした。

そして、明治政府が建設されますが、まだ古い藩体制が残ったままでした。

藩がそれぞれ年貢を徴収するというばらばらの財政でに成り立っていた体制を壊し国を立て直すため大久保利通が行ったのが「廃藩置県」です。

藩を廃止され反発したのが薩摩藩の島津久光です。

島津久光は、抗議の意を込めて自邸の庭で一晩中花火を打ち上げさせます。

既に兵士は政府に取り上げられていたため、このような抗議を行うしかなかったのです。

明治政府は島津家に分家するよう命じます。

大久保利通は、自身の出身地である薩摩藩との関係が悪化してしまいました。

大久保利通と日本近代化

次に大久保利通が行ったのが、アメリカと締結された不平等条約を改正するための交渉です。

不平等条約とは、江戸時代末期にペリーの来航によって締結した日米和親条約と日米修好通商条約のことです。

大久保利通一行はアメリカに渡り交渉を行いますが、近代化が進んでいないことを理由に突っぱねられてしまいます。

大久保利通は近代化の必要性を感じ明治政府の近代化策を推し進めていきます。

「富国強兵」をスローガンとして西洋の資本主義を取り入れる殖産興業政策を進めていきました。

大久保利通と西郷隆盛

明治政府内では、朝鮮半島を攻める「征韓論」と反対派で意見が対立していました。

大久保利通は、そんなことをしている場合ではなく近代化を進めるべきだと征韓論に反対しますが、征韓論者である西郷隆盛と対立してしまいます。

西郷隆盛は明治政府を抜けて鹿児島へ帰ってしまいます。

この対立により西郷隆盛の他、約600人の軍人・官僚が職を辞した「明治六年政変」が起こりました。

国のトップに立った大久保利通の政策

1873年、大久保利通内務省を作り、そのトップである内務卿になり、事実上の明治政府の頂点に立ちます。

明治政府は財政面で問題を抱えており、大久保利通はまずこれを解決する政策を行います。

武士たちには江戸時代からの慣例で禄(ろく)が与えられ、それは政府の支出の30%を占めていました。

禄とは、仕官する武士などに与えられる給与のようなものです。

これを改革するため禄の廃止を行いました。

士族はこれに反発し、日本中で蜂起が起こります。

大久保利通は軍事力によりこれを鎮圧しました。

そんな大久保利通でも、故郷鹿児島にはなかなか攻撃できずにいました。
ここに、大久保利通の人間らしさと苦悩が映し出されています。

鹿児島の反発と西南戦争

明治政府の禄の廃止と廃刀令に反発した鹿児島は独自の軍事化を進め、「まるで独立国のようである」と言われました。

大久保利通は、出身地である鹿児島との関係を穏便に済ませたかったのですが、木戸孝允(きどたかよし)に説得され鹿児島だけを野放しにできなくなります。

鹿児島の士族の軍の武器・弾薬庫から武器を盗み軍事力を削ぐ作戦を取ったのです。

これに怒った鹿児島士族が反乱を起こします。これが有名な西南戦争です。

大久保利通は、この反乱軍を親友であった西郷隆盛が率いていると聞き大変なショックを受けたといいます。

鹿児島士族の軍は3万にも膨らんでいました。

大久保利通は、明治政府の会議の場で「西郷隆盛と直接会って話したい」と言いますが、すでに明治政府の要となっていた大久保を危険にさらすことを政府の他の人たちは認めませんでした

そして、いよいよ反乱軍討伐の命が下ります。

政府軍は数に物を言わせ反乱軍を鎮圧していきます。

政府軍

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戦争により銃弾2発を受けた西郷隆盛自害します。

そして反乱軍の戦争が終結しました。

西郷隆盛の死を知った大久保利通は、涙を流したといいます。

大久保利通は、戦争により荒廃した故郷鹿児島に大量の米や衣類を送り、税金を免除しました。

大久保利通の暗殺

西郷隆盛を失った士族たちは戦争により明治政府を倒すことを諦めましたが、次の策として大久保利通を暗殺することを計画します。

暗殺の首謀者は大久保利通殺害予告状を出しますが、大久保利通は警護を付けませんでした。

1878年5月14日、大久保利通は馬車で皇居へむかう途中で暗殺されます。

大久保利通は、自らの命を賭けて国の改革を行う覚悟ができていたため、護衛をつけなかったといわれています。

暗殺事件の当日大久保利通は日本の未来について力強く語っています。

「これまでの10年は争いが多かった。これからの10年は国を作っていく時代だ。そしてその先の10年は跡を継いだ若い人たちが日本を作っていく。」

大久保利通が死んだ後、日本は大久保の望んだとおりの発展をとげていくことになります。

大久保利通という人間が分かるエピソード

大久保利通の死後、彼には現在の価値にして数千万円の借金があったことが発覚します。

彼は私財を投げうって国の公共事業を行っていたのです。

大久保利通の志を知っていた債権者たちは、彼の死後、遺族に対し借財の返済を求めなかったといいます。

 

財を捨て、親友を殺し、自らの命を賭け日本の未来を作り上げた男、大久保利通

日本が一気に近代化を進め欧米列国に肩を並べるほどに成長できた陰には、これほどまでに熱い政治家がいたからなのです。

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