1970年アメリカで自動車の排気ガス規制法、通称「マスキー法」が成立しました。
当時まだ自動二輪専門のメーカーだったホンダが、この法律をクリアし世界一の自動車メーカーを目指します。
「プロジェクトX 挑戦者たち 世界を驚かせた一台の車 ~名社長と闘った若手社員たち~」は、敏腕経営者本田宗一郎と本田技術研究所の社員たちの物語です。
20世紀を代表する名車11で、1970年代のナンバーワンに選ばれたホンダCVCC
本田宗一郎という名経営者
昭和40年代当時、ホンダは、自動二輪の最高峰レース、マン島TTレースで1位から5位を独占するほど自動二輪の世界では群を抜いたマシンを開発していました。
本田宗一郎は、当時58歳でしたが経営は重役たちに任せ毎日工場で油にまみれ開発の先頭に立っていました。

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当時ホンダにいた社員は本田宗一郎のように自分の技術ですごいモノを作ってやろうと若者たちが集まっていました。
ホンダの400人の技術者の平均年齢は27歳という若さでした。
みんな本田宗一郎のことををオヤジと呼び慕いました。
本田宗一郎は技術に厳しく、失敗すれば社員には鉄拳が飛んできました。
それでも社員たちは本田宗一郎に付いていきました。
大気汚染研究室(AP研)の立ち上げ
当時アメリカでは公害問題が大きくなり、フォード、GM、クライスラーも頭を悩ませいていました。
ホンダの若き社員、八木静夫(やぎしずお)は海外の論文でアメリカの公害問題の広がりを見つけ、公害対策の研究をしたいと社長に直談判します。
AP研(大気汚染研究室)というチームが立ち上げられ、小さな部屋で研究がひっそりと開始します。
ホンダが自動車業界に殴り込み
昭和40年代、日本は自家用車ブームでした。
自動車業界は、年間187万台もの車を売り、2大メーカーであるトヨタと日産は大きな業績を上げていました。
ホンダはN360という車で自動車事業に殴り込みをかけます。
N360は瞬く間に大人気となりホンダは軽自動車販売で日本1位となりました。
ひっそりと続くAP研の研究
ホンダがN360で絶好調の頃、AP研では、ぜんそくの原因となる窒素化合物、人の命にもかかわる炭ガスという様々な有害物質が排気ガスに含まれていることを発見します。
これからは汚れた排気ガスを出さないエンジンの開発が必要になると考えました。
ガソリンを燃やす量を減らす作戦に出て開発を進めますが、それではエンジンはほとんど動きませんでした。
結果を出せないAP研はメンバーを減らされ給料も下げられてしまいます。
いよいよ日本にも広がった公害問題
昭和45年7月、グラウンドで練習していた学生たちが突然大量に倒れ病院に運ばれるという事件が起こりました。
調査の結果、光化学スモッグが原因だということが分かりました。
これはニュースで大々的に取り上げられ日本でも公害が大きな社会問題になりました。
ホンダ倒産の危機
昭和45年8月、ホンダN360の事故死が発生し、遺族が本田宗一郎に対し欠陥死による損害賠償の裁判を起こしました。
結果としてこの裁判は不起訴となりますが、ホンダにとっては大きなイメージダウンとなり業績は落ち込みます。
そんな中アメリカでマスキー法が通過します。
本田宗一郎はホンダを立て直すため、マスキー法をクリアする新しいエンジンの開発を行うことを発表しました。
会社の命運がAP研の開発にかかってしまう事態になってしまいました。
低公害エンジン開発の開始
AP研の社員藤井功がソ連に関する古い論文でわずかなガソリンで動くエンジンを見つけます。
エンジンを狭い副室で燃焼させる方法でした。
早速実験に運転性能も格段に落ちてしまいました。
これを改良しながら新エンジンの開発を進めていくことになりました。
副室付きのエンジンはCVCCエンジンと名付けられました。
そこから1000もある課題を解決するため日夜研究が進められます。
試作しては直してを100回も繰り返しました。
「子供たちに青空を見せてやろう」がスローガンでした。
CVCCエンジンの完成
昭和47年秋、CVCCエンジンを積んだ車が鈴鹿サーキットを走りました。
確かに排気ガスは10分の1に抑えられていました。
いよいよアメリカに持ち込んで新しい法律をクリアできるかテストの開始です。
車のエンジンを入れたところ、異音がして大量の排気ガスが出されました。
輸送による揺れでキャブレターに不具合が発生してしまっていたのです。
壊れたパーツを入れ替えて試験は翌日に持ち越されました。
翌日、ホンダ社員たちが緊張した顔で見守る中、世界で初めてマスキー法基準をクリアすることに成功しました。
アメリカのBIG3ですら不可能であったことを自動車業界に参入したばかりのホンダがやってのけたのです。

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本田宗一郎の引退
このCVCCエンジン搭載の車が完成した後本田宗一郎は社長の座を降ります。
引退の理由を本田宗一郎は次のように語りました。
「CVCCの開発に際して、「BIG3に並ぶ絶好のチャンスだ」と言ったが、若い人たちから「会社のためにやっているのではない、社会のためにやっているのだ」と反発された。」
「いつの間にか私の発想は企業本位のものになっていた。若いというのはなんと素晴らしいことか。みんながどんどん育ってきている。」
当時CVCCの開発を行った社員はいいます。
「本田宗一郎は私にとって神様みたいな人ですけど、神様は人を殴りませんよね。本当のオヤジみたいな存在です。」
社員が社長を尊敬し、社長が社員を信頼するという絆があったからこそホンダは世界に誇る大企業に成長できたのです。
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