1993年にJリーグが開幕し、サッカーは国民的なスポーツとなりました。
しかし、サッカーがプロ化されるまでの道のりは困難の連続でした。
1990年頃の日本サッカーは日本代表選手が活躍する社会人リーグでさえ、観客席はがらがらでした。
当時、日本がプロ化できるまで100年かかると言われていました。
「プロジェクトX 挑戦者たち わが友へ 病床からのキックオフ ~Jリーグ誕生・知られざるドラマ~」は、サッカーのプロ化に命を賭けた一人のサラリーマン木之本興三(きのもとこうぞう)のドラマです。

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木之本興三と永井良和の出会い
昭和47年、日本は高度経済成長期でした。
当時23歳の木之本興三は古河電気工業で営業に奮闘していました。
古河電気工業は電話のケーブル設備を行う会社でした。経済成長の波に乗り業績は絶好調でした。
古河電気工業にはサッカーの強豪実業団チームがありました。
木之本興三は大学でサッカーをやっていたこともありこの実業団チームに所属していました。
古河電気工業には永井良和という日本代表の天才ストライカーがいました。

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木之本興三と永井良和は意気投合し仲良くなりました。
木之本興三を襲った病魔
木之本興三は、ある日の練習中、突然意識を失いグラウンドで倒れ病院に運ばれます。
医師から聞いた病名は、グッドパスチャー症候群。
両方の腎臓を摘出し人工透析を行わなければ生きていくこともできないと伝えられました。
妻のお腹の中には子供がいました。
会社は長期休業扱いとしてくれました。
長いリハビリ期間を終えて会社に行けるようになった頃には子供は5歳になっていました。
日本サッカーリーグの事務局長に就任
会社に戻った木之本興三は衝撃を受けます。
闘病生活中にオイルショックが来て会社の経営は傾いていました。
強豪だったサッカーチームの設備も資金がなくボロボロになっていました。
永井良和は日本代表から落選し、会社からお荷物扱いをされていました。
そして、木之本興三は会社からクビを宣告されてしまいました。
友達の塾で講師をしてなんとか生活費を稼ぎました。
そんな時、選手時代の仲間だった三菱重工の藤口光紀が、サッカー社会人リーグ再生のため事務局の事務局長にならないかと声をかけてきました。
いつ死ぬかも分からない木之本興三は、仕事ができる喜びで、すぐに引き受けます。
社会人サッカー改革の開始
事務局長に就任した木之本興三はサッカー界で飛びぬけた知名度持つ釜本邦茂に連絡し、サッカー界のアイコンになってもらうことにしました。
釜本邦茂が全裸になり筋肉をさらしたインパクトのあるポスターが完成しました。
それでも観客は集まりませんでした。
新たな作戦を探すため、木之本興三は重い体を引きずりながら全国のサッカー場をめぐりました。
ある日、山形のサッカー場に行ったときに衝撃を受けました。
とても小さな会場はサッカーを熱狂的に応援する観客であふれていました。
地方都市には野球や大相撲が来ず、スポーツに飢えていたのです。
サッカープロ化への取り組み
地方を代表するチームを作れば観客は来ると思い、仲間たちとサッカーのプロリーグ化の計画を作り日本サッカー協会に話を持っていきます。
しかし、失敗を恐れた日本サッカー協会は反対しました。
現在の社会人サッカーの観客席の状況を見ると、プロ化したところで人が集まるとは思えなかったのです。
そこで、古河電気工業時代の監督だった川淵三郎に話を持っていきます。

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川淵三郎はサッカー界に大きな影響力を持っていて、協会を説得できると分かっていたのです。
狙いどおり川淵三郎を巻き込みサッカー界はプロ化への道を進んでいくことになりました。
プロリーグ検討委員会の発足
プロリーグ検討委員会が発足し、いよいよ具体的にサッカープロ化の動きが進んできました。
しかし、問題が発生します。
プロ化にあたり現在の社会人チームの名前から企業名を外す条件を各社は受け入れませんでした。
平成2年8月、難航するプロリーグ化に対し、住友金属工業が企業名がなくてもプロチームを持ちたいと手を上げました。
茨城県鹿島に本社を持つ住友金属工業は町の過疎化による労働力不足をスポーツで盛り上げて改善したいと考えていました。
しかし、鹿島は2部リーグで低迷する弱小チームでした。
そんな中、大企業トヨタが手を上げます。
社長豊田章一郎は言います。
「ヨーロッパではチームに企業名がないのはあたりまえ」
そして、徐々に参加を表明する企業が集まってきました。
鹿島の奇跡
平成3年1月、プロへの参加を申し出たのは14チームにも増えました。
それを10チームに絞ります。
その中に鹿島が含まれていました。
木之本興三は、プロリーグの成否は地方の鹿島が盛り上がるかどうかにかかっていると思っていました。
そんな中、1年前に引退したサッカーの神様ジーコが復帰するというニュースが流れました。
木之本興三は、急いで鹿島に連絡し、ジーコを鹿島を呼んでほしいと伝えました。
鹿島の担当者はすぐに海を渡り、ジーコに直接会い、サッカーでの街づくりに力を貸してほしいと熱く語りました。
そして神様が鹿島へ来ました。
ジーコはこのときの決断を「運命だと思った」と語っています。

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ジェフユナイテッドというチーム
Jリーグに参加することが決まったジェフユナイテッド市原の経営母体は古河電気工業でした。
その監督に就任したのは既に引退した永井良和でした。
古河電気工業時代にはガラガラだった観客席に本当に観客が入るのか不安でした。
しかし、Jリーグが開幕し、たくさんのお客さんがいるのを見たとき、「木之本さんはすごいことをやったんだな」と実感したそうです。
木之本興三の夢が叶った瞬間
木之本興三はカシマサッカースタジアムにJリーグの試合を観戦しに行きました。
グラウンドでは世界一の男ジーコが走り、巨大な競技場は満員の観客で埋め尽くされていました。
「ついにここまでたどり着いた」
木之本興三の夢が叶った瞬間でした。
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