世界のトヨタもかつては中小企業でした。
当時はまだ簡素な軍用トラックを作る地方の企業でした。
生産現場の主任だった中村健也は自社で本格的な乗用車を開発すべきと建議書を提出しました。

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そこに目を付けたのがトヨタの創業者、豊田喜一郎でした。

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「プロジェクトX 挑戦者たち われら茨の道を行く ~国産乗用車 攻防戦~」は、豊田喜一郎と中村健也たちの戦いの物語です。
このDVDから学ぶこと
- 大企業トヨタでも倒産の危機はある
- 周りから無理だと言われても当初の目的を変更しない
- 妥協せず努力することで身につけた技術だから自信を持てる
- 読書はピンチのときに人を助ける
トヨタと中村健也
愛知県の片隅で空襲を免れた創業から9年のトヨタ自動車は従業員6000人は、戦時中に作った軍事用トラックを復興用に作り替えて業績を伸ばしました。
中村健也は、読書が大好きな人で、自宅には寝る場所もないほどの本を抱えていました。
ある日一冊の本に目がとまりました。
トヨタの社長豊田喜一郎が国産の乗用車を作る夢を語っていました。
中村健也は、それを見てトヨタで働くことを決意しました。
ところが、なかなか中村健也が思ったとおりには事は運びませんでした。
終戦から3年たっても乗用車を作ろうとしない会社の役員たちに中村健也は建議書をたたきつけました。
類義語:意見書
建議書に書かれた、乗用車開発のために必要な経費は25億円でした。
役員たちはみな笑いましたが、社長はその建議書に目を付け、自分と同じ夢を持つ社員がいることに感動して、乗用車の開発に乗り出します。
銀行からお金を借り乗用車作りに必要な巨大なプレス機を大量に導入します。
トヨタ倒産の危機
乗用車開発に乗り出したトヨタにいきなりピンチがおとずれます。
ジョセフ・ドッジが日本へきて、インフレ抑制のため銀行融資をストップしたのです。
ドッジ・ラインと呼ばれる金融引き締め政策で日本のインフレを抑えようとしました。
金融機関からお金が借りられず倒産する企業がたくさん出てきました。
販売先が倒産し、トヨタのトラックも売れなくなってしまいました。
困ったトヨタは、銀行へ追加融資を依頼しますが、逆に2億円の返済をせまられました。
業績の悪化したトヨタは労働組合から猛烈な反発を受け、豊田喜一郎は社長の座を降りざるを得ませんでした。
トヨタの復活
昭和25年7月、突然トヨタにアメリカ陸軍から軍用トラック4000台の注文が入ります。
朝鮮戦争の勃発によりアメリカで軍用トラックが不足していたのです。
トヨタの業績はこの奇跡的な出来事により大復活しました。
トヨタ最大の決断
業績が復活し、いよいよ国産乗用車開発に全力を傾けようとしていたとき、フォードからトヨタへ連絡が来ます。
技術者を派遣するのでフォードの車を作ってほしいという提携の誘いでした。
常務の豊田英二が中村健也の家を訪ねました。

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常務は中村健也に言います。
「フォードの車が手に入ったので乗ってみないか。」
圧倒的ななめらかな乗り心地でした。
中村健也は、それでもフォードの提携ではなく、自社で開発を行いたいと言いました。
国産乗用車開発の本格始動
中村健也は乗用車開発の主査となりました。
タクシー会社に行き外国車の性能を聞きまわりました。
3か月後、乗用車の設計書を作り仲間に披露しました。
- 1500cc
- 最高時速100キロ
- 足元にコイルバネを付ける
しかし、この高すぎる目標が開発者たちを苦しめることになります。
9か月の開発期間が続き、足回りだけの試作車が完成しました。
工場の横の空き地で乗ってみたら、コイルバネは衝撃で折れ、溶接で継いだフレームは切れていました。
トヨタを襲う逆風
トヨタが国産車の開発に苦労しているところに、さらに追い込まれるニュースが流れてきます。
日産がオースチンと提携を結んだというニュースでした。
現在は、中国の南京汽車の傘下です。
日銀総裁の口からはとんでもない言葉が飛び出します。
「国力のない日本に国産車は無理だ。外国から買えばいい。」
中村健也が読書で培った知識
その頃トヨタでは、試作車を作り、試乗するたびバネが折れるということを繰り返していました。
そこで、鉄鋼メーカーと交渉し、鉄板を見直すこととしました。
鉄板の柔軟性を邪魔する炭素、窒素、クロムの含有量が大事だとメーカーに説明しました。
逆境を超えて国産車が完成
中村健也は、周りに何を言われても絶対に当初の仕様は変えずに国産車の開発を成功させようとしていました。
試作車の失敗続きで自信を失っていた開発者たちに中村健也は言いました。
「開発は夜行列車と同じ、前が見えなくても度胸で走り続けろ。」
壊れないバネが作れずに疲れ切っていたところに、神奈川のバネメーカーが強度の強いバネを作っていることを知りました。
そこでは、小さな鉄の球を猛スピードでバネにぶつけて耐久力を上げていました。
一か八かその方法に賭けてみると、バネの強度が大きく向上しました。
昭和30年1月、いよいよ待ちに待った国産車が完成しました。
「クラウン」と命名しました。

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クラウンの挑戦
クラウンが完成したばかりの頃、新聞社から前代未聞の申し出が来ます。
ロンドンから東京までクラウンで走らないか。
国産車をアピールする絶好の機会でした。
昭和31年4月30日、ロンドンを出発したクラウンは雪、砂漠も関係なく走り続けました。
スタートから8か月後、東京に到着しました。
中村健也たち技術者の努力が報われ、自分たちの技術に自信を持った瞬間でした。
トヨタ産国産車の快進撃
クラウン発売から5年で生産は6万台を突破しました。
タクシー会社は外国車をやめ、次々と国産車に乗り換えました。
国は「国民車構想」を打ち上げ、日本の道路は日本の車で埋め尽くそうと考えました。
諦めずに努力し続けた開発者たちの勝利でした。
中村健也は、その後役員への就任を拒否し、引退するまでずっと一人の技術者として開発をし続けました。
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