平成元年水深6500mという深海へ潜った日本が世界に誇る深海調査船「しんかい」。
その完成には気が遠くなるほどの開発期間を要しました。
「プロジェクトX 挑戦者たち 海底ロマン!深海6500mへの挑戦 ~潜水調査船・世界記録までの25年~」は、日本が世界に誇る潜水艦を完成させた男たちの物語です。
DVDのから学ぶこと
- 一人でできないこともたくさんの人が集まれば大きな力になる
- 信念をもって物事に取り組んだ人には信頼して協力してくれる人が集まる
- どんなに時間がかかっても諦めなければいつか夢は叶う
前田逸郎と遠藤倫正
昭和39年10月、日本は東京オリンピックが開催され世界一のスピードで経済発展していました。
その日本の産業を支えていたのが造船業です。
三菱重工業神戸造船所は当時日本でも最大規模の造船所でした。
従業員数10000人いました。
前田逸郎(まえだいつろう)は同期の中でずば抜けて能力が高く、艦艇設計課という花形部門に配属されました。

©NHKエンタープライズ
艦艇設計課のエースと呼ばれていた遠藤倫正(当時係長)は、潜水艦はやしおの設計を手掛けた天才でした。

©NHKエンタープライズ
遠藤倫正は、自分の技術を試すため、欧米各国が開発競争をしていた深海潜水艦を作りたいと思いました。
遠藤倫正は、社内から腕利きの技術者を集めて深海潜水艦の開発プロジェクトを始めます。
そのプロジェクトに前田逸郎が選ばれました。
6000m潜れる船を作れば、世界の海の98%をカバーできる、それが目標でした。
当時世界で最も深海に潜れたのはアメリカのアルビン号という調査船で、1830mの深さまで潜ることができました。
開発開始から1年が経過
1年後、遠藤倫正は、本社から予算を勝ち取り水圧実験装置を購入することができました。
水深6000mと同じ圧力をかけたところ、あらゆる球体が破壊されてしまいました。
当時の技術力では全く太刀打ちできないほど深海6000Mは未知の世界だったのです。
研究開始13年で潜水艦完成
潜水艦研究は13年という気が遠くなるほど長い期間を経て、国家を巻き込むプロジェクトに成長します。
昭和53年、水深2000mを目指す「しんかい2000」の開発が開始します。
このとき会社は不況に陥り、船を作るドッグが4か月間開いているような状況でした。
このとき前田逸郎は40歳になっていました。
- 浮力材
- 耐圧穀
この2つの開発が生命線でした。
浮力材は潜水艦が深海でバランスを取るために必要なもので、ネジ1本でも設計と違うと船はバランスを崩し転覆してしまいます。
耐圧穀は、乗組員が乗るコックピット部分で、完璧な溶接でなければ人の命が守れません。
しんかい2000完成
昭和55年10月、しんかい2000が完成します。
早速、試験潜水に入ります。
船長から「ブラックアウト!」という叫びが海の上で見守る前田逸郎の無線に届きます。
電気系統が落ちてしまったのです。
予備電源でなんとか浮上します。
3か月後に何とか深海2000mに到達しますが、その頃アメリカでは4000mまで潜れるの潜水艦を開発していました。
日米の技術力の差はまだまだありました。
大地震と国家プロジェクトによる開発
昭和58年5月、日本海中部地震が起こりました。
津波が押し寄せ、104人もの人が亡くなりました。
昭和62年5月、海底地震の原因を探るため6500mまで潜れる「しんかい6500」の開発が開始します。
そこには日本の最新技術が盛り込まれました。
当時アメリカの潜水艦が記録した世界記録6000mに挑戦する開発でした。
遠藤倫正は既に定年退職し、前田逸郎は50歳になっていました。
前田逸郎は「しんかい6500」の開発で、これまでの経験を活かし責任者として参加することになりました。
ロケットの溶接技術、最新の素材などを使い、最新の機械でしんかい6500はどんどん作られていきます。
完成した「しんかい6500」は設計より重量が100kgも重いものでした。
前田逸郎は、船を分解し、全てのパーツを少しずつ削って軽量化する作戦にでました。
工場に行き、頭を下げて軽量化を頼み込みました。
みんな、前田逸郎の頼みに喜んで力を貸しました。
普通なら自分たちが一度完成させたパーツを直してくれと言われると技術者は嫌がるのですが、前田さんなら仕方ないと笑いながら協力しました。
3週間後、150kgの減量に成功した潜水艦が完成しました。
世界に挑戦する潜水艦の完成
平成元年8月11日、いよいよ「しんかい6500」が未知の世界への挑戦の日です。
見事6500mへ到達、前田逸郎の25年の悲願が達成された瞬間でした。
この映像を見た銀河鉄道999の作者、松本零士は言います。
「時間は夢を裏切らない。」
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