日本人で最も宇宙へ行った男・宇宙飛行士・若田光一の仕事を紹介

プロフェッショナル 若田光一 ドキュメンタリー
©NHKエンタープライズ

日本人で最も宇宙に行った人物、若田光一。

当時48歳、既に日本人として最多の3度の宇宙旅行を成功させていました。

2013年、日本人初の国際宇宙ステーションの船長に選ばれ4度目の宇宙に向けた訓練が始まりました。

プロフェッショナル仕事の流儀 宇宙飛行士 若田光一の仕事 ~極限の宇宙 コマンダーへの道~」は、4度目の搭乗までの3ヶ月間に密着しました。

若田光一

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若田光一が船長に選ばれた理由

若田光一は、宇宙でのロボットアームの操作では世界一と言われる技術を持っていると言われています。

操縦するロボットアームは、最大で17メートルの長さを持ちます。

7つの関節を持つ腕を2本のアームで動かします。

そして、若田光一には、大きな経験がありました。

かつて国際宇宙ステーションで2年半という長期間を過ごしたことを評価されて船長に選ばれました。

宇宙飛行士の過酷な訓練

宇宙へ行くことが決まってから、当日までの訓練はNASAジョンソンセンターで行われます。

宇宙飛行士には2000時間の訓練が必要です。

船長はさらに1000時間が必要です。

さらに、宇宙ステーションでは公用語となっているロシア語の訓練も必要です。

マッハ1で飛ぶ小型飛行機の操縦訓練も行います。

宇宙服を着て活動するのも何度も訓練が必要です。

船長は、全ての船員が着る宇宙服の仕組みを全て理解しておく必要があります。

若田光一が宇宙飛行士を目指したわけ

若田光一が5才のとき、アポロ11号が月に行きました。

それを見たときからずっと宇宙に憧れていました。

宇宙工学を学んだあと、飛行機の整備士になりました。

ある日、新聞で宇宙飛行士募集の広告を見つけました。

既に28歳になっていた若田光一は、チャンスだと思って訓練を受けることにしました。

8か月にわたる訓練を終えて、無事宇宙飛行士になれたのは若田光一ただ一人でした。

若田光一が衝撃を受けた事件

2003年2月1日、大事件が起こります。

スペースシャトルが空中分解し、乗組員7名が全員死亡しました。

死亡した乗組員

©NHKエンタープライズ

シャトル内の片づけを行った若田光一は、黒こげになったヘルメットを見て、そこに宇宙飛行士の体があったはずなのに跡形もなくなっているのを見て涙が止まりませんでした。

宇宙飛行士になることをやめる仲間がたくさん出ました。

家族からも宇宙へ行くことを止められました。

それでも、若田光一は宇宙への夢をあきらめませんでした。

若田光一の言葉

「ハードルが高ければ高いほどやりがいがある。」

「人生っていうのは究極的には自分への挑戦だなというふうに思います。」

「宇宙に行って得られるものはリスク以上のものがある。」

「それぞれの人が置かれた環境の中で、どれだけ頑張れたかで評価が決まるべきだと思います。自分で選んだ以上その中で最善を尽くす、妥協はしない、そういうつもりで生きてます。」

プロフェッショナルとは?この質問には次のように答えました。

「自分の限界がどこにあるかっていうのを経験とかから知って、それに向かってたゆまぬ努力を続けることができる人、それが本当のプロフェッショナルじゃないかなっていうふうに思います。」

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