第二次世界大戦でソ連が日本人捕虜に行った洗脳教育

引き裂かれた歳月 シベリア抑留 ドキュメンタリー
©NHKエンタープライズ

太平洋戦争終結後、敗戦国の日本は57万人を超える人々がシベリアに抑留され、強制労働を強いられたという事実があったことをご存知でしょうか?

シベリア抑留

©NHKエンタープライズ

満州にいた日本人たちがソ連の支配の元、シベリア各地の収容所に送られました。

元抑留者たちからの証言を集め、当時シベリアで何が起こっていたのか、重要な歴史をひもといた映像が「引き裂かれた歳月 証言記録 シベリア抑留」です。

ソ連による支配

昭和20年8月、太平洋戦争の最中、日ソ中立条約を破棄し、ソ連軍が満州国を一方的に攻撃しました。

関東軍は、抵抗することもできず投降するしかありませんでした。

 

ソ連は国力増強のため、氷点下30度での環境で捕らえた日本人たちを過酷な労働に従事させました。

シベリアには石油などの地下資源が眠っていました。
これを採掘するために日本人たちは捕らえられたのです。
強制労働

©NHKエンタープライズ

捕虜たちに与えられたのは雑穀と簡素なスープのみでした。

抑留者たちには社会主義教育として日本新聞が週2回配られました。

日本人同士の争い

シベリアでのせまい環境の中では、戦争が終わった後にも関わらず階級制が残っており、下級兵は一番きつい労働を与えられ、寝る場所も粗末なものでした。

次第に上官に対する不満が積み重なっていきました。

ソ連側も、社会主義制度を日本人に浸透させるため、階級制度の撤廃をあおりました。

下級兵により、上官の戦時中の行動が糾弾されはじめました。

そして、下級兵がソ連に上官の情報を売り始めました。

下級兵に裏切られ、「戦犯」として投獄されてしまうと、生きて日本に帰ることができません。

戦犯になる基準は「ソ連に不利益を与えた」というあいまいなものでした。

段階的な帰国の開始

日本の本土では、ソ連によるシベリア抑留を非難する声が高まっていました。

日本を支配していたアメリカも、ライバル国であるソ連の対応を強く非難していました。

敗戦国の国民をすぐに帰国させることは既にポツダム宣言で決定していましたが、ソ連軍はこれに反してシベリア抑留を行ったのです。

 

ソ連は、国際的な非難を受け、段階的に抑留者たちを帰国させることを決めました。

そこでソ連が発表したことは「民主化した者から帰国化させる。」でした。

 

シベリア抑留者たちの中に、アクチブと呼ばれる社会主義を広める有望な若者を育てる作戦を取り、社会主義に関する教育を徹底的に行いました。

アクチブ

©NHKエンタープライズ

日本人同士が裏切り合う

ソ連軍は、シベリア抑留者の中に反ファシスト委員会を作り、日本人自らに民主主義の指導を行わせました。

委員会は、アクチブをリーダーとしたグループに分けられ、民主化が進んだグループから帰国できるようにし、日本人たちに社会主義化を競わせました

そして、日本人捕虜を監視する諜報活動を組織しました。

要するに、日本人内にスパイを作り、反動分子を探し当てようとしました。

日本人同士が反動分子を探し合う異常な生活でした。

仲間の一人を大声で吊るし上げる行動が行われました。

吊るし上げを行うと、人よりも早く帰国させるというソ連の対応が、悲惨な状況を加速させました。

いつ誰に裏切られるか分からない恐怖におびえて過ごしました。

その恐怖で自殺してしまう者まで現れてしまいました。

抑留者たちの帰還

終戦から11年、ようやく日本人の引き揚げが完了しました。

その間5万5千人が死亡したといわれています。

ソ連の教育による洗脳により、帰国後も赤旗をかかげて共産主義をうたう者もいました。

そうでない者たちも、帰還者たちは、共産主義者として人々から敬遠され差別を受けました

シベリア帰りの人々は職に就くこともできませんでした

ソ連の支配は、帰国後も長い間、元シベリア抑留者たちを苦しめ続けたのです。

日本の歴史に関するオススメ記事

日本軍が生んだ世界最高の戦闘機「零戦」はなぜ太平洋戦争で敗れたのか

歴史を別の視点から考察する変わった舞台「歴タメLive」

借金をして日本のために私財をつぎ込んだ政治家・大久保利通

コメント