昭和19年10月、日本の太平洋戦争の敗北が濃厚になっていました。
日本軍の重要な軍事拠点であるサイパンが陥落し、いよいよ本土に直接アメリカ軍が攻撃を仕掛けてくるのを防ぐため、日本軍はアメリカ海軍空母部隊に総攻撃を行いました。
これが「台湾沖航空戦」です。
アメリカの空母撃破11隻という大戦果が報告され、国民は戦争の勝利を大きく期待しました。
日本軍の連戦連敗で戦争が敗北濃厚に
台湾沖航空戦の開始

©NHKエンタープライズ
この戦闘では、アメリカの空母10隻を撃破しなければ日本軍の敗北は濃厚となってしまうことが、あらかじめ計算されていました。
この作戦前の10月10日、アメリカ軍による沖縄本土攻撃と台湾の日本軍基地空爆が行われました。
これに反する形で、10月12日、いよいよ日本軍の台湾沖総攻撃が開始されます。
大本営から発表された戦果は、信じがたいものでした。
アメリカ軍の主力艦隊の壊滅させる、空母11隻撃破が堂々と発表されました。

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実はアメリカ軍の空母はほぼ無傷のままでしたが、その事実は、陸軍はおろか、小磯国昭首相や天皇陛下にも伝えられていませんでした。
そのまま首相が全国民に向けて大戦果を発表してしまいました。

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そして天皇陛下による大戦果発表の勅語も出されました。
当然国民はこれを信じ、日本軍が一気に戦争の劣勢をひっくり返したと思いました。
台湾沖航空戦の真実
台湾沖航空戦の1日目の攻撃に出撃した日本軍の航空機は99機でした。
雲が厚く索敵機が照明弾を敵機に近い位置に落とすことができず、攻撃目標を見つけられませんでした。
何度も空中を旋回しているうちに燃料がなくなってしまいました。
わずかに敵空母を発見した航空機は、集中砲火を浴びました。
99機のうち54機が未帰還となりました。

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台湾沖航空戦で嘘の戦果が流れた理由
台湾沖航空戦1日目の戦果報告
戦果の報告は、帰還した搭乗員たちの言葉を元に、搭乗員→機長→基地司令部→大本営と伝令されていきました。
戦闘詳報には、搭乗員から機長への10月12日攻撃分の報告として「空母(推定)を雷撃命中。その他に火柱を確認せり」と書かれています。
機長から基地司令部への報告として「艦型不明の轟沈を認む 艦種未詳の轟沈を認む」と記載され、新たに2隻撃沈の報告がされます。
これが、大本営の発表によると「空母撃沈1隻、不詳撃沈1隻、空母撃破1隻、不詳撃破1隻」となってしまいました。
このとき台湾沖航空戦に出撃した搭乗員たちは、ほとんどが初めての出撃、しかも夜の出撃ということで、あいまいな報告しかできませんでした。
司令部があいまいな報告を推し量って、戦果を大きくしていったのです。
台湾沖航空戦2日目の戦果報告
10月13日、今度は、日本軍の航空機45機が出撃します。
前日の照明弾の失敗を元に、明け方に出撃します。
しかし、よりアメリカ軍に発見されやすくなり、集中砲火の的になってしまいました。
13日の大本営発表の戦果では「轟撃沈 空母3隻 巡洋艦1隻。撃破 空母1隻 戦艦1隻 巡洋艦1隻」となりました。
アメリカ側の報告では「巡洋艦1隻に魚雷直撃 沈没なし」とされていました。
台湾沖航空戦3日目の戦果報告
10月14日、大戦果を受けて、日本軍はさらに航空機の数を増やし380機でアメリカ軍に攻撃を仕掛けます。
しかし、240機が帰還できませんでした。
14日の大本営発表の戦果では「轟撃沈 空母3隻 戦艦2隻 巡洋艦3隻。撃破 空母2隻 巡洋艦2隻 巡洋艦または駆逐艦1隻 不詳2隻」となっていました。
アメリカ軍の報告では「巡洋艦に魚雷命中 沈没なし」でした。
この戦果の報告に対し、否定する事実も存在しないため、命がけの戦闘から帰って報告する兵士たちに対し、否定することができない空気が司令部に流れていたといいます。
戦果報告に疑問を持つ者もいた
しかし、この報告に疑問を持つ人物もいました。
大本営陸軍部情報参謀の堀栄三少佐は、手記を残していました。

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そこには次のように書かれています。
「根拠のない歓喜の波がいつか知らぬ間にだんだん大きくなって指揮所の空気をだんだん揺さぶっているのは、外からやってきた私には一目でそれと感じられた。」
「これではいけない。戦果は大きくないぞ。半分もない。東京に電報を打とう。」
そして大本営に電報を打ちます。
「いかいに沢山でも、空母のうち撃沈の確実なのはまず二隻を出ない。」
天皇の直属機関大本営は、陸軍参謀本部と海軍軍令部に別々に所属する部隊からなっていました。
堀栄三少佐が、その場で問いたださず、大本営に電報を送るにとどめたのには理由があります。
陸軍の参謀本部は、海軍に口出しできる立場になかったのです。
海軍内部でもあまりの戦果の大きさに疑問が上がり始めました。
連合艦隊情報参謀中島親孝中佐は、
「アメリカ空母がそう簡単に沈むわけがない、連合艦隊で戦果をしぼらなければいかんではないですか。」
と進言しました。

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それに対し、連合艦隊航空参謀淵田美津雄中佐は次のように答えました。

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「そんな 下から報告してくるのを現場を見ていないで値切れるか。」
堀栄三少佐の意見が握りつぶされた
事の真相を確認するため、マニラに行った堀栄三少佐は、現場が大戦果に沸き立っているのを見て、自分の大本営への電報が無視されていることに気が付きました。
大本営陸軍部作戦参謀杉田一次大佐は、戦後に次のように語りました。

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「堀の電報は大本営陸軍部(作戦)で握りつぶされ上司に報告されなかった。正確な情報が途中でオミットされ作戦指導が適切を欠いた。」
大本営が真実を知った日
アメリカ軍の空母のほとんどを大破したと思っていた日本軍に、現地の索敵機の報告により「アメリカ軍の空母7隻、戦艦7隻他発見」の連絡が飛び出します。
大本営は急いで事実確認に乗り出します。
戦果を判定しなおす会議を行いました。
撃沈した空母は最大でも4隻、残っている空母は最低でも10隻はあると判断されました。
嘘がもたらした最悪の事態
大本営海軍本部は戦果の嘘に気が付きましたが、陸軍部には情報が隠されました。
そして、詳細が陸軍に知らされないまま10月20日レイテ島による決戦が行われます。
陸軍では台湾沖航空戦での大戦果から、海からの敵空母の援護はないと判断し、総攻撃を行います。
しかし、日本軍輸送船団は無傷で待機していたアメリカ空母部隊の攻撃を受け、レイテ島の陸軍は孤立します。
弾薬と食料を失った陸軍の兵士は、アメリカ軍の攻撃に加え、飢えと病気によりどんどん死んでいきます。
この戦いで、9万人のうち7万9千人が死亡したといわれています。
10月22日、日本船団はレイテ島への決死の補給作戦を行いますが、アメリカ軍空母の攻撃を受け壊滅します。
しかし、大本営は、この戦いでも大戦果をあげたと嘘の発表をします。
この後、現実は隠されたまま、アメリカ軍が沖縄に上陸し、本土が攻撃の波にさらされて、最終的に核爆弾の投下により日本は敗北しました。
台湾沖航空戦での嘘がなければ、レイテ島の惨劇は起こらなかったのではないか、と言われています。
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