スタジオジブリのプロデューサー鈴木敏夫の「プロフェッショナル仕事の流儀」

プロフェッショナル 鈴木敏夫 スタジオジブリ ドキュメンタリー
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日本歴代興行収入で圧倒的な1位の座に君臨し続けている金字塔「千と千尋の神隠し」。

そのアニメを作った業界の巨人、スタジオジブリの宮崎駿を支えたのがプロデューサー鈴木敏夫です。

「プロフェッショナル仕事の流儀 スタジオジブリ鈴木敏夫の仕事 自分は信じない 人を信じる」は、鈴木敏夫(当時57歳)に密着したDVDです。

鈴木敏夫

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鈴木敏夫の仕事

鈴木敏夫は、朝9時に自宅を出て職場まで1時間かけて仕事に向かいます。

常に新しい道を探して走るので、出勤中に迷うこともしばしばあります。

まだ経験したことをやりたがる性格です。

プロフェッショナルのカメラ密着中は、ちょうど「ゲド戦記」を制作している最中でした。

監督は、宮崎駿の息子、宮崎五朗でした。

その頃、宮崎駿は趣味の地球儀作りに没頭していました。

宮崎駿

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既に前作から2年を経過していました。

宮崎駿に新しい脚本を作らせるのも鈴木敏夫の仕事です。

しかし、急がせるようなことはせず、ゆっくりと宮崎駿の話を聞きます。

宮崎駿は言います。

「作らせる振りをしないで、作らせるのが鈴木さんの魂胆です。」

20代の苦い日々

鈴木敏夫は、昭和23年生まれ、ノンフィクションライターを目指していました。

大学卒業後、大手出版社に入社し、記者として全国を飛び回り、記事を書き続けました。

鈴木敏夫 若い頃

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ある日、上司がもらした一言が「お前の記事はどこでも削れる」でした。

文書はうまいが、こだわりがなく、浅い記事ということでした。

自分の書く文章に自信を持っていた鈴木敏夫は衝撃を受けました。

そして、マニア向けアニメ雑誌の編集部に飛ばされてしまいました。

そこは、各部署のお荷物が集まる寄せ集めの部署でした。

宮崎駿との出会いで変わった

鈴木敏夫は、アニメに全く興味がありませんでした。

そんなとき、当時37歳の宮崎駿に出会います。

宮崎駿 若い頃

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彼が放った言葉は衝撃でした。

「こんなくだらない雑誌にコメントは出したくない。」

話をしてくれるまで、3日間待ち続けました。

宮崎駿が口を開いたのは、文学や民俗学の話でした。

その話がおもしろくて、鈴木敏夫は、宮崎駿のファンになってしまいました。

宮崎駿の人間性に惚れた鈴木敏夫は、真剣にアニメ雑誌を作ろうと思いました。

しかし、わずか6人の編集部員は誰もアニメの知識がありませんでした。

編集部に出入する学生たちにも、熱意のある者にはどんどん記事を書かせました。

新しく始まるロボットアニメ「マクロス」の記事が書きたくて仕方がなかった渡邉隆史の熱意を信じ記事を書かせました。

渡邊隆史

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ただの学生に全幅の信頼を置いて記事を書かせてくれることに渡邉隆史は奮い立ち、渾身の記事を書き上げました。

これが、大ヒット。

瞬く間にアニメ雑誌は大人気となりました。

そして、漫画のアニメ映画化に挑んだのが「風の谷のナウシカ」です。

宮崎駿の才能を信じ、映画化を任せました。

ここから映画界を変える快進撃が始まりました。

宮崎駿との大ゲンカ

風の谷のナウシカの制作後、鈴木敏夫宮崎駿は大ゲンカしました。

鈴木敏夫が重要な人物だと思っていた人の扱いがひどかったという理由でした。

鈴木敏夫が、つい言ってしまった心にもない一言

「映画にお客が来て嬉しいのか」に

宮崎駿は冷静になり

「鈴木さん、そんなこと思ってたのか」

と言いました。

 

今となっては良い思い出だそうです。

 

鈴木敏夫の名言

「自分を信じない。一人の人間ができることはたかだか知れている。

プロフェッショナルとは?という質問にはこう答えました。

「プロフェッショナルですか・・・、これ難しいなぁ・・・、ほんと難しいですね。やっぱり、みんなの期待に応える。そうかな・・・。そういう気がします。」

何とも間の抜けた回答のような気もしますが、鈴木敏夫らしい優しさを感じる言葉でもあります。

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