2007年に18年のプロ生活に別れを告げた日本一のキャッチャー古田敦也。
その古田敦也に引退直後に単独のロングインタビューを行ったのが「古田敦也 ~野球を愛するすべての人達のために~」です。

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感動の引退セレモニー
引退セレモニーで古田敦也が語った言葉はファンの心にずっと残っています。
「18年間本当にありがとうございました。また会いましょう!」
最後にフェンスによじ登って、観客の間近で手を振るシーンは、人々の目に焼き付いています。

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ロングインタビューで明かされた古田敦也の歴史
古田敦也は、1965年、兵庫県に生まれました。
小学3年生になると地元の野球クラブに入りました。
当時からポジションはキャッチャーでした。
野球では無名の兵庫県立川西明峰高校に進学します。
中学校では既に有名になっていましたが、名門校からの誘いを断り、地元の高校に通いました。
大学は、立命館大学を選びました。
なぜか、辞めるつもりだった野球を続けました。
大学4年になると、大学オールジャパンにも選ばれるようになり、ドラフトを意識するようになりましたが、名前を呼ばれることはありませんでした。
トヨタ自動車に入社し、ソウルオリンピックでは日本代表正捕手として銀メダルを獲得しました。
社会人として2年を経験し、ヤクルトスワローズからドラフト2位で指名を受けました。
ヤクルト入団後の活躍
ヤクルト入団1年目は苦労しました。
監督は名捕手にして大打者だった野村克也、目を付けられた古田敦也は徹底的にしごかれました。

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「アマチュアで8番打っていたのなら、プロでは25番くらいだ」と言われてイラっとしたのを覚えているそうです。
しかし、1年目からレギュラーに定着し、リーグ1位の5割を超える盗塁阻止率を記録しました。
2年目にはオールスターでMVPに選ばれるほどの選手に成長していました。
2年目には、首位打者争いをするほど打撃も成長してしました。

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古田自身は打率.316 ホームラン30本を記録しました。
4年目の1993年もスワローズが優勝します。
古田敦也は盗塁阻止率.644という驚異的な記録を残しました。
古田敦也のホテルの部屋にはテレビが置かれ、情報収集用の対戦相手のビデオが数えきれないくらい並べられていたそうです。
日本シリーズでは王者西武に前年のリベンジを果たし、日本一に輝きました。
翌年、古田敦也は打球が手に当たり骨折し、長期離脱します。
チームも4位と低迷しました。
1995年は古田敦也完全復活。
新加入したオマリーが大活躍します。
投手陣も、石井一久、ブロスの活躍によりヤクルトスワローズはリーグ優勝を果たします。

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この年は、天才イチローがいるオリックスが日本シリーズの相手でした。
「マスコミにあおられて、イチローが冷静な状態ではなかったのが勝因」と古田敦也は語ります。
1997年は、古田敦也が1000本安打を達成しました。
その年、2年ぶりにヤクルトスワローズは日本一に輝きました。
古田敦也は、シーズンMVPと日本シリーズMVPの両方を獲得します。

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1998年、古田敦也は日本プロ野球選手会会長に就任しました。

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2001年、ファールフライを追う際に、左ひざ十字靭帯の損傷という大怪我を負います。
しかし、打率.324を記録し、チームも日本一になるという不思議な年でした。

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この2001年が、古田敦也にとって一番記憶に残っているシリーズだったそうです。
2002年には、1500試合出場を達成しました。

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2003年は、高津臣吾が229セーブの日本記録を作った年です。
2003年6月28日の広島戦で、古田敦也はプロ野球タイ記録の1試合4ホームランを達成します。
この年、オリックスと近鉄が合併し、1リーグ制の案が飛び出します。
古田敦也は選手会長として、選手の雇用を守るためスト決行も辞さない覚悟であることを発表します。

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2004年には200号ホームランを達成します。
2004年9月8日、日本プロ野球史上初のストライキが決行されました。
ファンたちの熱い支持に、古田敦也は人目もはばからずに泣きました。

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古田敦也の努力の結果、2リーグ制の維持を勝ち取りました。
2005年4月24日、2000本安打を達成します。
史上32人目、キャッチャーとしては史上2人目、社会人野球からプロ入りした選手としては史上初の快挙でした。

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2000本達成したヒーローインタビューでは、
「チームが最下位なんでね。チームが上へ上へ行けるように頑張っていきたいです。記録より試合に勝てた方が本当にうれしいです。」
なんとも古田敦也らしいコメントでした。
この年は、プロ通算1000打点も達成します。
この記録も社会人野球からプロ入りした人として史上初でした。
選手兼監督就任と引退
2006年は、選手兼監督に就任します。
2007年、選手として2000試合出場します。
チーム最下位の責任を取るため、古田敦也は、本社を訪れ、監督退任と選手引退を申し入れました。
引退会見では、開口一番、応援してくれているファンに対してチーム低迷の謝罪の言葉が出てきました。

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この引退発表以後は、古田が打席に立つだけで他球団のファンから大きな歓声があがります。
広島ファンも阪神ファンもみんな大声で古田の名を呼びます。
最終戦では、古田敦也の一挙手一投足に大声援が送られました。
これほど、全てのプロ野球ファンから愛された選手はいないでしょう。

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