底なし沼に羽田空港を作った凄腕作業員たち

プロジェクトX 羽田空港 ドキュメンタリー
©NHKエンタープライズ

高度経済成長にともない、昭和50年代、日本の空の便は急激に数を増やしていました。

日本中に13もの新空港ができました。

その急激な飛行機の増加でパニックになったのが羽田空港でした。

昭和6年に建設された羽田空港は、手狭で滑走路が少なく、着陸の順番を待つ飛行機が上空で何機も待機する状態でした。

新しく羽田空港を作り直す計画が立てられましたが、これが前代未聞の大変な工事となりました。

 

参考資料「プロジェクトX 挑戦者たち 新羽田空港 底なし沼に建設せよ」

選ばれた最悪の場所

早速新羽田空港の建設が計画されますが、選ばれた場所は水分200%の超軟弱地盤、歩くだけで腰まで埋まるほどの底なし沼でした。

都心へのアクセスを考えたとき、この場所しか候補地がありませんでした。

 

戦後最大の建築が始まりました。

専門家がいない

400トンのジャンボジェット機が2年後に導入されるまでに、重さに耐えられる滑走路を作ることが急務でした。

しかし、戦後、日本の滑走路の舗装は戦勝国アメリカに握られ、日本には専門家がいなくなっていました。

神奈川県にある運輸省・港湾技術研究所では滑走路研究室の佐藤勝久が、毎日アスファルトを練っていました。

佐藤勝久

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工事開始

昭和59年1月、ヘドロの上に空港を造る前代未聞の工事が開始されました。

埋め立てられたヘドロの柔らかい地盤を何とかするための工事のリーダーに選ばれたのが、泊博昭でした。

泊博昭

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エジプト、スエズ運河の拡張工事に参加した経験がありました。

メンバー25人を率いました。

ペーパードレーン工法により工事を進めることにしました。

ドレーン工法とは、軟弱な地盤に透水性の高いドレーン材を鉛直に打設し、土中の水分の排水距離を短縮しドレーン打設後に盛土を設置した時に荷重により効率よく水分を排水させることで、地盤の圧密を促進させて地盤強度の増加を図る工法です。

地中にドレーン材を打ち込む巨大な重機を持ち込みますが、ヘドロに足を取られて横向きに倒れてしまいました。

晴れの日が続くと、ヘドロの表面が乾いて砂塵になり、視界を奪いました。

重機が倒れないように丸太を敷いて、重機をその上で走らせました。

管を次々と打ち込んでいきました。

その数100万本となりました。

1か月後、管の先から水が流れ出るのを見ました。

1年半で東京ドーム8杯分の水を抜きました。

舗装資材が完成

泊博昭たちがドレーン工法により作り上げた下地に、佐藤勝久が選び抜いた舗装資材を敷き詰めました。

選んだのは、コンクリートの中にピアノ線を張った、強度と柔らかさを両立した素材です。

滑走路には高速道路の倍の精度の平らさが求められました。

慎重に舗装資材を敷き詰めていきます。

地盤沈下が発生

昭和62年、調査の結果、エプロンを建設する場所が地盤沈下していることが判明しました。

エプロンは空港内の、飛行機に貨物や人の乗せるための広い場所です。
佐藤勝久は、油圧ジャッキを使い、沈む地盤を直接持ち上げるという荒業に出ます。
持ち上げてできた空洞に特殊なコンクリートを流し込みます。
世界初の試みでした。
ジャッキアップしてコンクリートを流した場所に400トンのトレーラーを走らせても、ビクともしませんでした。
沈む空港が攻略された瞬間でした。

新羽田空港の完成

平成5年に羽田空港は完成しました。
完成後も、羽田空港は何度も地盤沈下を起こしました。
そのたびに佐藤勝久たちが作り上げたジャッキアップ工法が使われ、何度も復活し、今も多くの飛行機が飛び立つ日本の玄関となっています。

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