昭和34年、戦後の焼け野原から復興した日本に、5年後の東京オリンピック開催の朗報が舞い込みました。
しかし、まだ当時の東京の道路は整備途上でした。
急激に増えた交通量に対応できず、幹線道路は渋滞だらけでした。
羽田空港から、オリンピック会場予定地の代々木までは2時間かかってしまう状況でした。
このままでは東京オリンピックは失敗の烙印を押されかねない。
当時まだ計画段階だった首都高速をオリンピックまでの5年で作り上げる案が浮上しました。
参考資料:DVD「プロジェクトX 挑戦者たち 首都高速 東京五輪への空中作戦」
空中作戦
普通のやり方をしていたのでは用地買収に時間がかかり、東京オリンピックまでに工事が間に合いません。
そこで編み出されたのが空中作戦です。
空中で入り組んだジャンクションの建設、地下で合流するトンネルなど、前例のない難解な工事が山積みでした。
昭和34年、首都公団が設立されました。
その中心になったのが仲田忠夫です。

©NHKエンタープライズ
川に橋を建てる難しさ
日本の道路は江戸時代より日本橋付近で合流するようになっていました。
地理上の問題から首都高速も日本橋付近に巨大なジャンクションを作る必要がありました。
3層の道路になり、100本もの橋脚が必要だという計算になりました。
川にそれだけの橋脚を立てると氾濫してしまいます。
この問題は、梁の上に橋脚を乗せることで橋脚の数を3分の1にするという作戦で乗り切ります。
空港付近でも問題発生
さらに羽田空港付近でも、橋脚を立てると飛行機の視界が悪くなるという理由で工事を行うことができませんでした。
羽田空港付近ではトンネルを掘って地下を通すことを発案しますが、橋脚を建てる間川をせき止めなければならないということで、地元漁師から反対運動が起きました。
オランダで開発された新工法
空港付近の問題はオランダで開発された工法で解決できることが分かりました。

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この工法で地元漁師を説得しました。
地下トンネルでも問題発生
さらに、地下にトンネルを掘ると、排気ガスが充満し、とても危険であるということが発覚しました。
トンネル内部に吸い込み口を作り、ガスを吸い上げる仕組みを作りあげました。
伝説のとび職人登場
いざ、川の上にジャンクションを建設しようとすると、大問題が発生します。
川の上には作業員たちの足場が組めないのです。
そこで選ばれたのが、2年前に東京タワーを作った伝説のとび職人、桐生五郎たちでした。

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ブロックの間を飛び回りながら、軽快に作業を進めました。
首都高速完成
そして、昭和39年10月1日、オリンピックの9日前に首都高速が完成しました。

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羽田から代々木まで、ノンストップで30分で選手たちを運び、東京オリンピックは大成功となりました。
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