そのうち、薬で完治するケースは3分の1で、残りは骨髄移植を行わなければ治療できません。
しかし、骨髄移植は、型が合わなければ行うことができません。
自らも白血病患者だった
24歳で白血病を発症した大谷貴子は、英語の教師になるはずでした。

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病室で同じ病気に悩む園上さおりに出会います。

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大谷貴子は、必死で知り合いに電話をかけ、骨髄を調べてくれないか、と頼みますが相手にしてくれない人も多くいました。
大谷貴子は、死を覚悟しましたが、たまたま自分の母親の骨髄が一致したため、移植を受けることができました。
しかし、園上さおりは骨髄提供者が見つからず、14歳の若さで死んでしまいました。
園上さおりが残した作文には「普通の高校生になって、普通のお嫁さんになって、普通のお母さんになりたい。」と書かれていました。
骨髄バンクのために立ち上がる
大谷貴子は、骨髄移植をもっと簡単にできないか主治医の森島泰夫に相談しました。

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森島泰雄は、最近アメリカで骨髄バンクという制度ができたことを思い出し、日本でもその制度を作ることを提案しました。
プロジェクトの開始
昭和63年8月、プロジェクトは街頭で提供者を探すところから始めました。
しかし、人々は冷ややかでした。
「腰に注射を打つなんて考えられない。」
厚労省に相談に行きますが、「健康な人の体を傷つけるような制度は国民が納得しない。」と一蹴されました。
園上さおりの作文が流れを変える
大谷貴子は、説明会を開き、そこで園上さおりの作文を読みました。
説明会の終了後、100人がドナー登録に手を挙げました。
しかし、骨髄バンクに次の問題が現れました。
骨髄を調べるためのお金が足りないのです。
町の工場を歩いて募金を募りました。
平成元年、登録者は400人に増えました。
適合者が見つかる
そして、始めて型が一致した人が現れました。
しかし、実際にドナーに会いに行くと、「もしものことがあったら困る」と断られてしまいました。
その後も、適合者を見つけた後に、本人に会いに行くと断られるケースが相次ぎました。
骨髄バンクから初の移植者
平成元年7月、市役所職員の田中重勝は適合者として選ばれました。

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人の役に立てという父の言葉を受けて育った田中重勝は提供する旨の意志を示しました。
しかし実際に病院に行き、提供前の検査を受けたとき、怖くなりました。
ボールペンほどの太さの注射を腰に10回も打つことは衝撃でした。
しかし、自分が辞めてしまえば、人が一人死んでしまうと思い、決断しました。
平成元年9月13日、13本もの注射で1リットルの骨髄が抜かれ、患者のところへ運ばれました。
手術は無事に成功、骨髄バンクにより人の命が救われた瞬間でした。
二人の運命の出会い
田中重勝の骨髄提供により移植を受けた橋本和浩は、もっと骨髄バンクを広げたいと、自身が白血病であったことと、骨髄バンクにより骨髄移植を受けたことを公表しました。

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平成9年9月20日、骨髄バンクの集会で、檀上に出た橋本和浩は、「この中に、私を救っていただいた命の恩人はいませんか?」と聞きました。
おそるおそる檀上に上がった田中重勝の手を、橋本和浩は力強く握りました。

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その後、骨髄バンクは公的機関になり、ドナーの登録者は15万人を超えました。
そして、現在でも多くの白血病患者の命を救い続けています。
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