霞が関ビルの地上36階、高さ147mは、今でこそ普通の高さのビルですが、建設された昭和初期には日本初の高層ビルでした。
建築基準法の改正
昭和30年代後半、東京の人口は増え続け、ビル需要は増える一方でした。
何とかして日本に高層ビルを建てる方法はないかと、専門家たちは日々考えていました。
そこで調査されたのが上野の寛永寺の五重塔でした。
関東大震災のとき、この塔は全く被害を受けずに建ったままでした。
真ん中に垂直に立った一本の柱があり、それが揺れの衝撃をうまく受け流していました。
その技術を応用すれば、日本にも高層ビルが建てられるはずだという論調が広がり、建築基準法の高さ制限が撤廃されました。
霞が関ビル構想
建築基準法改正後、日本初の高層ビルとして計画されたのが霞が関ビルの建設です。
建築を担ったのは、鹿島建設です。
当時、昭和38年にはニューヨークのマンハッタンには摩天楼と呼ばれる高層ビルが大量に立ち並んでいました。
しかしアメリカの高層ビル建築技術は、地震の多い日本では役に立たないものでした。
リーダーの二階盛(にかいせい)は、新たな日本だけの建築方法を作り上げるため若手の技術者たちを集めました。

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平均年齢25歳、総勢150人が集まりました。
工期は2年半、日本の建築技術の未来を賭けた男たちの戦いが始まりました。

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次々と起こる問題
147mの柱は存在しませんので、1本11mの柱をどんどん縦に積み上げて、耐震用の長い柱を200本作らなければなりませんでした。
組み上げる柱が1mmでもずれていれば、大きく傾いてしまいます。
一定の柱が完成した後、再度組み上げた柱を測ってみると、全ての柱が2mmほどずれていることが発覚しました。
調査を進めた結果、高層階では太陽の熱で鉄骨が動いていることが分かりました。
夜中に起きてにずれを測定しなおしました。
高くなると、光化学スモッグで作業員たちが頭痛と吐き気に襲われました。
そして、地上100mにもなると風速18mの突風が突然吹き荒れる場所でした。
幅30cmの鉄骨の上を歩くだけで大変でした。
大地震の発生
昭和42年3月2日、東京湾沖で激しい地震が発生しました。
30階の高さで作業員たちが作業を行っている最中でした。
建設途中の霞が関ビルは、全く動きもせずそびえ立っていました。
降りてきた作業員たちは、地震があったことすら気付かないほど、建物は自身の揺れを吸収しました。
完成
昭和43年、霞が関ビルが完成しました。

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高度経済成長を支える日本の拠点となりました。
日本初の高層ビルには大量の観光客が集まり、この先の日本の発展を表すように真っすぐに、そびえたっていました。
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