1980年代終盤、ベラルーシで子供の大量の甲状腺がんが発生するという事件が起こりました。
1986年に起きた旧ソビエトのチェルノブイリ原子力発電所のメルトダウン事故によりまき散らされた放射性物質が、北方にあるベラルーシに風に乗ってやってきたのです。
広島原爆の500倍もの放射線がばらまかれた人類史上最悪の事故なのですが、冷戦の時代にあっては、ソビエトは事故をひた隠しにしました。
子供は、成長を促す甲状腺が活発なので、放射性物質の影響を受けやすかったのです。
旧式の手術を行った子供たちの首には、大きな傷跡が残りました。

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この記事の元になった資料:DVD「プロジェクトX 挑戦者たち チェルノブイリの傷 奇跡のメス」
立ち上がった一人の日本人医師
当時、菅谷昭(すげのやあきら)の所属する信州大学の第二外科は、甲状腺ガンの手術の専門の中でも日本トップと呼ばれる場所でした。

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彼の行う最新の医療技術は、子供たちの首にほとんど傷を残さず手術を行うことができました。
彼の父は、長野の雪の積もる田舎で、「医者は年中無休」と、患者たちのもとを駆け回った医師でした。
1991年、最初はボランティア団体に電話をし、大学に2週間休みをもらいベラルーシを訪問しました。
廊下に甲状腺がんの治療を待つ子供たちがあふれかえっている状況に衝撃を受けました。
しかし、調査でやってきた菅谷に手術は行えませんでした。
なすすべなく帰国した菅谷昭は助教授に昇進し、多忙を極めました。
ある日、帰宅した菅谷昭は大学を辞めベラルーシで働くことを妻に告げました。
小児科医である妻は、夫の性分をよくわかっていました。
覚悟を決めて2度目のベラルーシへ
52歳で単身ベラルーシに渡り、退職金を取り崩しながら生活し、現地の病院に無給で雇ってもらいました。
ベラルーシに来て1か月後、菅谷昭は助手として手術台に立っていました。
ベラルーシの医師たちによって子供たちの首は大きく切られ、大きな傷跡が残されていました。
当時のベラルーシはソビエトから独立したばかりで、資源も産業もなく経済はどん底でした。
若い医師たちは給料も安く、副業で何とか生活している者もいて、最新の医療を学ぶ時間もお金もないことは仕方ないことでした。
ベラルーシでの初手術
ベラルーシへ渡って1か月後、やっと菅谷昭が手術を行う機会が与えられました。
患者の首に小さく1本筋を入れて、そこにメスを入れました。
その手術のあまりの出来に驚いたベラルーシの医師は、急いで自分の部屋に戻り医学書を開いたときに、最新の甲状腺がんの手術の論文に菅谷昭の名前があるのを見つけました。
目の前で世界最新の手術を日本人が行っていることに衝撃を受けました。
手術だけではない患者と向き合う治療
菅谷昭は常に患者と向き合い、笑顔で勇気づけ続けました。
そんな菅谷昭の姿を見たベラルーシの医師は、菅谷の家のドアを叩き、手術を教えてほしいと頼み込みました。
菅谷昭は喜んで自分の技術を教え込みました。
さらに深刻な地域へ
ベラルーシに来て2年、100例以上の手術をやり遂げた菅谷昭は、首都ミンスクを離れ、最も多くのガン患者を抱える田舎町ゴメリへ向かうことにしました。
1998年、チェルノブイリ最大の被災地、ゴメリへ向かいました。
ゴメリの州立病院で、また無給で働き始めました。
既にその名はゴメリにも広がっており、若い医者たちが菅谷昭に技術指導を仰ぎました。
人と向き合う治療
そして、手術を行った後は、町を回って、がん患者が再発していないか、往診を始めました。
かつて父がやっていた、足で人々を救う医療でした。
地元の若手医師たちもそれに加わりました。
そこには、かつてミンスクで教えた若手医師も、菅谷昭を手伝いたいと、休日を返上して、片道300kmの道を駆け付けました。
ある日、かつて自分が手術を行った女性が看護師になって菅谷昭の前に現れました。
自分が救った子供たちが力強く生きる姿に菅谷自身も勇気をもらいました。
その後も、患者がいる町を渡り歩きながら往診を行いました。
やがて、自分が手術をした患者ではない人たちの首の手術跡がほとんどないことに気が付きました。
ベラルーシの若手医師たちの成長を実感した菅谷昭はとてもうれしく思いました。
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