バミューダ海域、ベーリング海など船の墓場と呼ばれる場所の他に、日本の近くの沖合にも魔の海域と呼ばれる場所が存在しています。
房総半島野島崎沖2000キロの海域は、冬になると謎の巨大な三角波が発生します。
高さ20m、6階建てのビルニ匹敵する波です。
昭和55年の年末、アメリカから石炭を運んでいた30000万トンの大型貨物船「尾道丸」が、この海域で三角波に襲われて大破しました。
正面からの巨大な三角波で船の舳先が上に折れ曲がるという、見たこともない状況でした。
救助に向かった日本船
尾道丸のSOSをキャッチしたのは、鉄鉱石をチリから日本に運んでいた貨物船「だんぴあ丸」でした。
船長の尾崎哲夫は、救助に向かうのか、難しい判断を迫られました。

©NHKエンタープライズ
直近で、リベリアとユーゴスラビアの船が行方不明になっていました。
助けに行けば自分たちが二重遭難にあうかもしれない。
しかも、日本への到着が1日遅れるたびに250万円の損害が発生するという状況でした。
しかし、尾道丸は南に50km、他に船はおらず、助けられるのは自分たちしかいないという状況でした。
尾崎哲夫は、「一緒に行ってくれるか?」と乗組員たちに聞きました。
海で生きる男たちは誰も反対しませんでした。
「尾道丸の救助に向かう。舵を南にとれ。」
船長・尾崎哲夫の冷静な判断
急いで尾道丸に無線で連絡をとります。
尾道丸からは、救命ボートに乗り換える旨の連絡がきますが、尾崎哲夫はこれを制止します。
石炭を大量に載せている尾道丸は、簡単には沈まないことを知っていたのです。
尾道丸に乗っている救命いかだに人を乗せ、ロープで一人ずつ引き上げる作戦をとります。
尾崎哲夫は、冷静に尾道丸の状態を確認し、嵐が去るまで救助は1日待つよう要請します。
救助作戦開始
昭和56年1月1日、海は昨日より穏やかになり、救助作戦が実行されます。
しかし、尾道丸の船長が甲板に出てきていないことに乗組員たちが気付きます。
戦前の日本海軍の教育により、船長は船と生死をともにすることが美しいとされていました。
その教育の記憶は戦後にも残っており、船とともに殉職する船長が後を絶ちませんでした。
尾道丸の船長も船とともに沈むつもりでした。
そんなとき、尾崎哲夫からの無線が入ります。
「元旦の祝杯をあげる準備ができております。29人全員の無事をお祈りしております。」
尾道丸の船長は涙が止まりませんでした。
そして、尾崎哲夫の説得に応じ自らも救命いかだに乗り込みました。
救命いかだが流される
しかし、尾道丸の乗組員たちを乗せた救命いかだが波に流されて、見失ってしまいます。
全力で船を旋回させ、探し回り30分かけて救命いかだを見つけました。
乗組員たちを次々とロープで引き揚げ、29人全員を助け出しました。
1時間後、全員が集まった食堂に並んだのは、豪華なおせち。
合わせて57人の乗組員たちが新年の祝杯をあげました。
船長の男気
家に帰った尾崎哲夫は、妻と少し遅くなった正月を祝いました。
帰宅が遅れた理由を「少し時化にあっただけ。」とだけ、妻に伝え、尾道丸のことは一切語りませんでした。
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