世界最高峰のロシア・ボリショイバレエ団で活躍する岩田守弘。
ボリショイバレエ団の長い歴史の中で初の外国人ソリストです。
その中でも重要な役割である第一ソリストを務めます。
閉ざされた歴史と伝統の世界でたった一人の外国人が上り詰めた世界です。
「プロフェッショナル 仕事の流儀 バレエダンサー岩田守弘」は、38歳当時の岩田守弘を追いかけました。

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岩田守弘の仕事
朝9時、地下鉄に乗り継ぎボリショイ劇場に通います。
国立ボリショイ劇場で毎日厳しい練習に取り組みます。

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ボリショイバレエ団では、体格や技術に優れた者が、小さな頃から英才教育を受けます。
岩田守弘は、その中でも最も小柄な166cmしかありません。
大きな動きを必要とする男性ダンサーの中で圧倒的に不利な体格で、役を勝ち取り続けています。
それほどまでに技術力では他のダンサーたちを圧倒しているのです。
主役の王子役を踊ることはできませんが、重要な役を任され続けています。
バレエは体を酷使するため、若いうちしかできません。当時岩田守弘は38歳を迎えていました。
通常のダンサーであれば引退する年です。
しかし、岩田守弘はますます技術に磨きをかけて、第一線で踊り続けていました。
岩田守弘の歴史
岩田守弘は、バレエダンサーだった父の影響で9歳でバレエを始めました。

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17歳のとき、全日本バレエコンクールで優勝しました。
高校卒業後に名門モスクワバレエ学校の研修生になりました。
ソ連では崩壊直前の動乱期で食糧難の時代でした。
2年後、ロシアの全国コンクールでグランプリになり、その翌年にはモスクワ国際バレエコンクールで金賞に輝きました。
自信を得た岩田守弘は、憧れだったボリショイバレエ団の門を叩きました。
しかし、岩田守弘がグランプリを獲得した大会で審査員をした人物がボリショイバレエ団の監督になりました。
岩田守弘の才能を知っていた監督は研修生としてボリショイバレエ団に招き入れました。
しかし、外国人だという理由だけでバレエダンサーとして認めてもらえず、大きな公演ではほとんど役が回ってきませんでした。
転機となった入団4年目
入団から4年後、幻の演目であるファラオの娘がボリショイバレエ団で行われるようになりました。
監督に直訴してもらった役は、着ぐるみを着て舞台を這うサルの役でした。

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屈辱的な役でしたが、「やります」と即座に答えました。
徹底的にサルの動きを研究しました。
わずか1分の出番でしたが、「人々の心に残るバレエだった」と岩田の役は絶賛されました。
そして、次の舞台では重要な道化の役を与えられました。
ロシアに渡って11年、道なき道を切り開いた瞬間でした。
岩田守弘の熱い言葉
「自分で、「俺は完璧だぜ」って言った時点で嫌な踊りですね。そんなの見たくない。のぼせあがるな。絶対のぼせあがるな。」
「バレエは体が動かないと表現できない。だから若いうちだけの芸術なんですね。だけど人間性とかは熟してくる。それは年齢に伴ってくるものだから。そういうのを僕らは踊りって言う。」
プロフェッショナルとは?という質問には次のように答えました。
「冷たい目で見られても、舞台がどんなでも、穴が開いていようが、寒かろうが、どんな時でも、どんな場所でも、周りがどんなでも、自分のすることをしっかりできる人」
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