平成8年12月3日、日本で初めて動いている心臓をメスで切り取る「バチスタ手術」が行われました。
あまりに高度な技術を要するため、それまで日本では取り組む医師がいませんでした。
そこに挑戦したのが、神奈川県鎌倉市の湘南鎌倉総合病院の外科医、須磨久善(当時46歳)でした。

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参考資料:プロジェクトX~挑戦者たち~「奇跡の心臓手術に挑む」~天才外科医の秘めた決意 ―ジャパン パワー、飛翔
なぜスーパードクターが地方病院へ?
須磨久善は、世界有数の執刀技術を持ち、大病院の部長という地位を捨て、湘南鎌倉総合病院へやってきました。
権威よりも一人の医者として患者として向き合うことを選んだ男でした。
関西の私立の医大を出た須磨久善は、学閥の壁にぶつかりアメリカ、ドイツ、ブラジルを渡り歩き、3000を超える手術を行いました。
いつしか、彼は神の手を持つ男と呼ばれるようになっていました。
通常5時間かかる心臓バイパス手術を3時間足らずで終える実力を持っていました。
初めてのバチスタ手術
日高伸行は、日本で初めてバチスタ手術を受けることになる患者でした。
心臓がメロンほどの大きさに膨れ上がった拡張型心筋症でした。
銀行員でしたが仕事中に何度も倒れていました。
それでも家族を養うため悲鳴をあげる体をだましながら仕事を続けていましたが、限界でした。
もはや、通常の手術では助からない状態でした。
白羽の矢が須磨久善に立ちました。
そして、平成8年12月3日に日本初のバチスタ手術が行われました。
体を開くと、心臓は2倍に膨れ上がっていました。
そこまでは想定どおりでした。
しかし、予想外の出来事がありました。
肺に水がたまっていました。
それでも、患者を助けるため、速やかに心臓の左心室の一部を切り取って無事手術は終了しました。
失敗と容赦ないバッシング
連日、マスコミ各社がバチスタ手術について報道したため、手術の翌日から病院には多数の人が集まりました。
手術から1週間後、日高伸行は重い肺炎にかかり、呼吸困難のため死亡してしまいました。
マスコミからは須磨久善に容赦ない批判が浴びせられました。
スーパードクターを救った1通の手紙
ある日、須磨久善の元に1通の手紙が届きました。
亡くなった日高伸行の妻からでした。
「暗闇の中に一筋の光明が見えた。拡張型心筋症で苦しむ患者のために今後もバチスタ手術を続けてください。」
失敗が許されない2回目の手術
大島則子は、拡張型心筋症を患っていました。

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もってあと半年だと言われていました。
夫は一か八かバチスタ手術に賭けたいと思い、須磨久善の元へ車を走らせました。
次にバチスタ手術を行い失敗すれば医師生命が断たれる状況でした。
それでも目の前の患者の思いに答えるため、バチスタ手術を決心しました。
スタッフを集めて宣言します。「私は医師としての全てを賭けます。力を貸してください。」
平成9年3月11日、大島則子のバチスタ手術が始まりました。
素早く胸を開くと、心臓は通常の3倍まで肥大していました。
大動脈を遮断し、心臓の動きを止め人工心肺を用いて血流を確保した後、一気に心臓の一部を切り落としました。
縫合を行い、心臓に血流を戻すと、止まっていた心臓が再び動き出しました。
「オペ完了」
24時間後、大島則子の意識が戻り須磨久善に言いました。
「心臓が軽くなったみたい。これでまたお父さんと一緒に生きられる。」
1か月後、大島則子は無事に退院の日を迎えました。
車で迎えに来た夫は言いました。
「桜を見に行こう。」
妻は言いました。
「桜がこんなにきれいなんて知らなかった。」
夫が言いました。
「来年も再来年も、また桜を見にこよう。」
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