アメリカの国立公文書館には、原爆投下直後に広島と長崎で撮影された動画と1万ページにも及ぶ大量の報告書が保存されています。

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学校にどのように原爆が落ち、子どもたちがどのように死んだのかが書かれています。
放射線が人間の体内にどのような被害を与えるのか、200人に及ぶ解剖の結果が書かれています。
それらの膨大な資料を作成したのは、日本人でした。
その資料は戦勝国アメリカへ送られ、日本の被爆者たちの治療のために使われることはありませんでした。
NHKが2010年にその膨大な資料を開示したときの映像が「封印された原爆報告書」です。
原爆調査の開始
最初の調査は、原爆投下後の広島で建物が残った旧陸軍病院で行われました。
陸軍省医務局が広島への原爆投下から5日後に調査に乗り出しました。
その調査で完成したのが「原子爆弾による広島戦災医学的報告書」です。

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6000人もの患者が運ばれ、ほとんど布団もなく寝かされているだけでした。
治療はほとんど行われず、検査が行われるばかりでした。
終戦になると調査の規模は一気に拡大して国家プロジェクトとなりました。
全国の大学や病院から調査員1300人が集まりました。
なぜ原爆報告書はアメリカへ渡されたのか
報告書の端には、「オーターソン大佐へ」と英語で書かれているものがたくさんあります。

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調べると、報告書をオーターソン大佐へ渡していたのは、陸軍省医務局の幹部である小出策郎軍医中佐でした。

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軍では、いずれアメリカから報告書の提出に関する要求があることは分かっていました。
心証をよくするため、求められる前から持っていきました。
そこには731部隊のことを考えての行動でもありました。
731部隊は満州で捕虜を使って化学実験を行っていた化学兵器専門の部隊です。

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戦争に負けた日本は、戦争犯罪の罪から逃れるために戦勝国アメリカの機嫌をとるため、有効なカードとして原爆報告書を使ったのです。
なんのために原爆データが使われた?
戦争終了後2か月が経つと、アメリカの調査団が原爆調査を開始し、日本軍の調査もますます積極的に行われるようになりました。
これらのデータのうち、特に原爆投下の距離によって死亡者がどのように変動するか、という「死亡率曲線」はアメリカの戦略にとって非常に重要なものとなりました。
これらのデータに基づいて、アメリカはソビエトを攻撃するために何発の原爆が必要かを計算していました。
研究の結果は日本内で共有することができず、研究者同士がお互いに集まって報告を行うことも許されていませんでした。
決して日本の原爆被災者たちのために使われることはありませんでした。
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