1881年にピカソは、スペインの由緒ある教会の一族として生まれました。
最もたくさんの作品を作った芸術家といわれているピカソを、各年代ごとにどのような特徴があるのかを分けて見ていくと面白いことが見つかります。
参考資料:ピカソ – マジック、セックス、デス
ピカソの父も画家だった
ピカソの父親は画家で毎日美術館へ行き、闘牛に行くのが趣味でした。
ピカソに絵を教えたのは父です。
1878年、マラガの市庁がピカソの父のハトの絵を買い取ります。

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父親はあまり売れない画家で、家族を養うために美術館で働いていました。
ピカソは、すぐに父親を超えてしまい、父親は、画材をピカソに譲って自分は引退すると言いました。
13歳の頃のピカソ
ピカソが13歳になると、父親はたくさんの肖像画を描かせるようになります。

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その後、ピカソ一家はバルセロナに移り、父親はピカソに宗教画を描かせるようになります。
そのほうが儲かると思ったからです。
青の絵の時代
その後、ピカソは友人のカサジェマスと一緒にパリに出て生活を始めます。
非常に貧乏でしたが、楽しく過ごしていたようです。
しかし、カサジェマスが銃で自殺すると、ピカソは、3年をかけて友人の死を描いた「人生」という絵を描き上げます。

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この頃のピカソの絵には青を基調とした絵が非常に多くなっています。
初期のキュビズムの時代
1904年、ピカソはフェルナンドという女性と出会います。
この当時のピカソはSEXとアヘンにおぼれていました。
そんな生活から脱却するため、ピカソはフェルナンドと共にゴゾルという田舎町へ10週間出かけます。
ゴゾルで書かれた絵は、幸福感に包まれたようなものが非常に多くあります。
また、ゴゾルで見た聖母子像の影響で、母親を描いた絵が多くなっています。

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そして、いよいよピカソのキュビズムの代表作でもある「アヴィニョンの娘」の制作に取り掛かります。

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この作品には、民族博物館で見たアフリカの仮面から感じた魔力を絵に込めました。
ピカソは魔術の様々な面に興味を持って、キュビズムに取り入れていきました。
戦争中の作品
この頃、ピカソはフェルナンドと別れ、新しい女性エヴァと付き合うようになります。
しかし、1915年にエヴァが病気で入院すると、ギャビー・ドゥーペイールと浮気をするようになります。
1915年12月にエヴァが死亡し、ギャビーに求婚して断られたピカソは絶望に陥ります。
当時の社会背景が第一次世界大戦中だったこともあり、この時代のピカソの絵にはとても暗いものが多いです。
第二次世界大戦になり、ドイツのヒトラーによるパリ占領が始まると、夜間の外出も禁止になり、閉塞感の中で生活していました。
この頃のピカソの絵は死を意識したものが多くあります。

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戦後の明るい作品
第二次世界大戦後は、地中海に戻り、60歳を超えて2人の子どもが生まれます。
その当時の作品には鮮やかな色彩と希望に満ちた絵が非常に多く書かれています。
1948年、南仏のヴァロリスという陶芸が盛んな町へ引っ越したピカソは陶芸作品をたくさん残しています。

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ピカソは死ぬまで創作を続け、1973年4月8日に91歳でこの世を去りました。
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