かつて「日本の技術力は世界一だ」といわれた時代がありました。
その先駆けになったのは、ソニーが作ったトランジスタラジオです。

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参考資料「プロジェクトX 挑戦者たち 町工場 世界へ飛ぶ ~トランジスタラジオ・営業マンの戦い~」
SONYの創業
昭和20年代、日本の製品は粗悪品というイメージが世界中で周知の事実でした。
最新の電化製品が欧米から輸入さていましたが、日本から輸出できる工業品は、雑貨や民芸品くらいでした。
ソニーの前身である東京通信工業は、盛田昭夫と井深大が第二次世界大戦後の焼け野原になった東京に作った会社でした。

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日本復興のため、外貨を稼ぐ必要があることから、海外に通用する日本製品の開発を目指します。
9年の期間をかけ昭和30年に完成したのがトランジスタラジオです。
世界に出るために日本の名前を捨てようとラテン語の「音」を表す「SONUS」から「SONY」と社名を変更します。
売れないトランジスタラジオ
盛田昭夫は、完成したトランジスタラジオを持ってアメリカに渡りますが、日本製品などすぐ壊れてしまう、とどこも門前払いです。
そんな中、アメリカの時計会社であるブローバー社が、SONYのトランジスタラジオを見て、その品質の高さに驚き「完璧だ。10万台買おう。」と言いました。
ただし、ブローバーのブランドで売ることが条件でした。
注文は喉から手が出るほど欲しかったですが、盛田昭夫は「50年後には、必ずお宅より有名になってみせます。」と断りました。
日本に帰った盛田昭夫は、海外への販売のため海外事業部を立ち上げ、英語が優秀な人材を集めました。
そして、翌年、トランジスタラジオを持って男たちが海外へ営業に向かいます。
その営業の中心となったのが小松万豊です。

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アメリカ進出
昭和35年2月、ニューヨークに降り立ったSONYの営業マンはマンハッタンにある倉庫を改造してアメリカ事業所を立ち上げました。
新しいもの好きのアメリカではトランジスタラジオは好調に売れ始めました。
しかし、壊れたラジオの修理依頼が舞い込みます。
中のコンデンサーがショートしているものがほとんどでしたが、故障の原因が分からず、次々と修理依頼が舞い込みました。
日本では全く問題のないはずのコンデンサーが海外では故障だらけだという謎でした。
その後も調査し続けた結果、パナマ運河を通る際にコンテナに入った商品が高温になることが原因だということが分かりました。
コンデンサーには湿度が高いと変質する銀が使われていました。
すぐにパーツを変更して問題を解決しました。
ヨーロッパで売れない
ヨーロッパではスイスのチューリッヒに事務所を立ち上げました。
海外の輸入品に厳しい規制をかける国がほとんどの中で、規制の緩かった西ドイツに売り込みを開始します。
同じ敗戦国であるドイツは、日本と同じく技術立国による再建を目指していたため、高機能なラジオがたくさん作られていました。
1年が経っても、ドイツでトランジスタラジオは1台も売れませんでした。
日本製に見向きもしなかったのです。
サクラ作戦で売り込む
そこで、高級店に絞って売り込みを開始することにしました。
ドイツの高級ピアノメーカー、スタインウェイにお金を払って1週間店頭に展示してもらうことにしました。
学生を集め、展示しているスタインウェイに買いに行かせるサクラ作戦まで行いました。
1週間後、スタインウェイがSONYのトランジスタラジオを仕入れさせてほしいと申し出ました。
まもなく、ドイツのあらゆる高級店にラジオを置いてもらうことに成功しました。
そして、残りの経費を使って大勝負に出ます。
「クリスマスにSONYのラジオを」という巨大な新聞広告を打ちました。
そして迎えたクリスマスの日、ドイツ中でSONYのトランジスタラジオは爆発的に売れました。
こうして、アメリカとヨーロッパでは、SONYといえばトランジスタラジオの会社というイメージが一般の人にまで広がっていきました。
ここから、トヨタや日産など日本企業が海外で有名になっていきますが、その扉を最初に開いたのがSONYでした。
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