中国軍の拷問に33年耐え続けた非暴力のチベット仏教徒パルデン・ギャツォ

雪の下の炎 ドキュメンタリー

1959年に「平和的なデモを行った」という「罪」で中国政府から投獄され、33年間にも及ぶ拷問を受け続けながら、解放後も非暴力での闘いを続けたチベット僧パルデン・ギャツォ

パルデン・ギャツォ

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その勇敢な姿から、彼の残した功績はダライ・ラマにも匹敵すると言われる、世界中で尊敬の念を集めています。

 

参考資料:映画「雪の下の炎」

パルデン・ギャツォの生い立ち

1933年、チベット西部に位置するパナムという小さな村に生まれたパルデン・ギャツォは、実の母が出産の1か月後に死んで、ギャツォ・シャル村に送られ叔父と叔母に育てられました。

愛情をもって育てられたパルデン・ギャツォは、他の子どもたちと一緒に遊び、幸せな子供時代を過ごしました。

大きくなったパルデン・ギャツォはチベットの僧となりました。

チベットでは僧が市民から尊敬を集めていて、成人して僧になることは、ごく自然なことでした。

当時のチベットは平和で、みんなが幸せに暮らしていました。

突然、奪われた平和

1949年に中国軍がチベットへ侵攻し、チベットの人々の幸せは崩れ去りました。

チベット侵攻

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中国軍はチベットの豊富な水や木材を狙っていました。

中国軍の征服によりチベット仏教は悪だと教え込まれました。

チベットの人々が立ち上がる

1959年、抗議の声が高まり、チベット蜂起が発生します。最初は平和的な抗議活動でしたが、次第に大暴動へと発展しました。

ダライラマ法王は、身の安全の確保のためインドへ亡命しました。

中国軍による弾圧が始まり、チベット仏教徒が次々と逮捕されていきました。

パルデン・ギャツォに対する拷問

パルデン・ギャツォも1959年に中国軍にとらえられます。

当時29歳でした。

チベット側のスパイであると中国軍に疑われ、自白を強要され拷問を受けます。

拷問

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宮殿での抗議に参加した罪で、裁判などないまま懲役7年を言い渡されました。

チベットの旗を掲げたり、ダライラマ方法の肖像を所持するだけで罪になる強烈な弾圧が続きました。

中国軍の目的はチベット僧を再教育することで、罪を認めなければずっと監獄から出られませんでした。

チベットが中国の一部であることを認めれば、解放されますが、パルデン・ギャツォは、これを認めようとはしませんでした。

「チベットはチベット人のものだ」と主張し続けました。

監獄では12019人ものチベット人が餓死するほど凄惨なものでした。

脱獄

1962年、パルデン・ギャツォは、刑務所からの脱獄を計画します。

脱獄は成功しますが、インドへの道の途中で捕まってしまい、また刑務所へ戻されてしまいます。

さらにひどい拷問を受け、「さっさと殺してくれればいいのに。」と考えるほどでした。

脱獄を図った罪として、8年の刑期が追加で言い渡されました。

脱獄

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1975年に15年の刑期が終了したパルデン・ギャツォは、まだ再教育が必要だとして、労働改造収容所に入れられてしまいました。

労働改造収容所は低賃金で働かされますが、許可を得れば町へ出ることができ、刑務所の中よりは自由があります。

1979年、ダライラマ法王のチベット訪問が実現します。

パルデン・ギャツォは、チベットの実情と中国軍の不当を訴えるためのビラを作って町に配りました。

再び逮捕

1983年にパルデン・ギャツォは、ビラを作った罪で再び逮捕されてしまいます。

8年の刑期を言い渡されます。

電気棒を口の中に突っ込まれるという拷問を受け、彼は歯のほとんどを失ってしまいます。

電気棒

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チベットが中国の一部であることを認めればすぐに釈放されます。

しかし、パルデン・ギャツォは、それを認めようとしませんでした。

解放後の活動

1992年に釈放されたとき、彼は61歳になっていました。

自由の身となったパルデン・ギャツォは僧院に戻りたかったのですが、それはできず、ネパールの雪山を超えてダライラマ法王がいるインドへ亡命することになりました。

20日間かけてインドのダラムサラにたどり着きます。

ダラムサラに到着後は、拷問の影響でしばらくは動けず、毎日経典を唱えるだけでしたが、2008年にオリンピックが北京で開催されることが決定すると、パルデン・ギャツォは、「チベットの解放なしにオリンピックを中国で行うことはあり得ない。」とハンガーストライキを行いました。

結果的にオリンピックの開催を止めることはできませんでしたが、パルデン・ギャツォの行動は世界中に知られることになりました。

 

現在も続く中国による弾圧

1959年以降の中国政府による弾圧で、推定120万人のチベット人が処刑、自殺、餓死などにより死にました。

中国政府は現在でも、チベット人にダライラマ法王への忠誠を捨てるよう強要しています。

パルデン・ギャツォの言葉

パルデン・ギャツォは言います。

「私にも怒りや憎しみの感情はあります。でもやがて、時がたてば傷も癒え始めます。すると私はこう考えるのです。

暴行の責任がすべて彼らにあるわけではない。殴り方が甘いと彼らも職を失うことになる。愛国心が足りないと非難されるのだろう。」

パルデン・ギャツォは、生涯を賭けてチベット人のために非暴力で戦い続けることを選びました。

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